村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【1Q84 BOOK2】

 BOOK2では、青豆と天吾の生い立ちと二人の最初の出会いが明かされます。同級生だった小学校時代の思い出。そこに複雑怪奇なこの物語を紐解くカギがあります。

 

《天吾の物語》

「僕には一人の友だちもいない。ただの一人もです。そしてなによりも、自分自身を愛することすらできない。なぜ自分自身を愛することができないのか?それは他者を愛することができないからです。人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛されることによって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法を知るのです。」

 

吾は、認知症緩和ケア病棟を訪れ、意思疎通のおぼつかない父親に語りかける。NHKの集金人の肩書に執着したかつての父親のように、今の自分も空白を抱えている。人を愛することができない孤独な状態は人間の核を蝕んでいく。愛の始まりにおいて家族の絆は不可欠であり、絆なくして愛を作り出すことは困難を極める。彼はそのことを深く了解した。

 

《青豆の物語》

「世界のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほどんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する」


豆は、暗殺の目的で近づいた「さきがけ」のリーダーから、神秘のからくりを明かされる。彼はリトル・ピープルがもたらす苦痛と見返りによって操られる存在に過ぎなかった。そして、リトル・ピープルに傾いた世界の均衡を取り戻すために、彼は自らの死を望んでいる。リーダーの真摯な告白と助言に彼女は覚悟を決め、尖った針先を彼の首もとに振り下ろした。

 

【カルトの勃興】

 本書には、左翼過激派の若者たちが政治運動に敗北した後、自給自足の集団生活を経てカルト集団を作り出していった過程が語られています。その鮮やかな語り口は現実に存在した組織や団体を想起させます。部外者である私たちは、カリスマ的リーダーの存在に目を奪われるのですが、本当に危険なのはカルトを生み出すシステムの存在ではないでしょうか。本書ではそれを『リトル・ピープル』という形で表現しています。

 

 ところで、一般的に語られる宗教は、死後の世界や魂の輪廻といった死を超越する教義によって、人の心に絶対的な宗教的モラルを成立させます。しかし、しばしば見られる「自己の利益のために隣人を愛せよ」という矛盾した論理は、私たち第3者の眼に奇異な姿を映し出します。

 

 その一方で、死の現実を見つめ、一度きりの人生を絶対的なものとして深く了解した人は、宗教的モラルや社会規範を踏み越えて自由意志を手に入れることでしょう。しかし、それが「安倍元首相の命を奪った山上被告」のような破壊的行動として現れた時、私たちは言葉を失ってしまいます。

 

 手放しで自己を愛することは命を掛けた暴走を招く危険性があり、純粋に他者を愛するためには不純な動機を排除しなければなりません。果たして「自己を愛すること」と「他者を愛すること」は、どのような形で共存し得るのでしょうか?

 

『空気さなぎの中の少女』

青豆、と彼はは呼びかけてみた。それから思い切って手を伸ばし、空気さなぎの中に横たわっている少女の手に触れた。そこに自分の大きな大人の手をそっと重ねた。その小さな手がかつて、十歳の天吾の手を堅く握りしめたのだ。

 

吾が目にしているのは少女の姿をした青豆の幻影。彼が世に送り出した小説に登場する「空気さなぎ」が実体となって目の前に出現した。それは「他者を愛すること」と「自己を愛すること」のささやかで確かな一致を体現している。何があろうと、ここがどんな世界であろうと、彼女を見つけ出そうと彼は心に決めた。

 

【魂の問題】

 この物語には、私たちの社会が抱える問題を《魂の問題》として取り出すためのさまざまな仕掛けが施されています。そうした目論みの末に、BOO2の結末は抜き差しならない状況に陥っているように見えます。こうした膠着状態を打開するため、BOOK3では『牛河』という愛嬌のあるキャラクターが第三の主人公として登場します。次回は小難しい理屈ばかりでなく、エンターテインメント性も兼ね備えた本書の読みどころをご紹介したいと思います。どうぞ宜しく。