村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【1Q84 BOOK3】

 BOOK3では牛河の章が加わり、3つの視点が交差する形で物語が進行します。牛河の追跡を交わして再会をした天吾と青豆は1Q84からの脱出を試みます。胸のすくようなエンターテイメントの先に浮かび上がる重厚なテーマ。どうぞ最後までお付き合い下さい。

 

《牛河の物語》

俺には、ほかの人間があまり持ちあわせていないいくつかの資質がある。天性の嗅覚と、いったん何かにしがみついたら放さないしつこさだ。これまでそいつを頼りに飯を食ってきた。そしてそんな能力がある限り、たとえどんな妙ちくりんな世の中になっても、俺は必ずどこかで飯を食っていける。俺はあんたに追いつくよ、青豆さん。

 

河は、奇怪な容貌が禍して世間から敬遠されるも、頭の回転の速さと実務能力、口の堅さを認められて裏社会を生きてきた。緻密な調査と推理力で青豆と天吾の関係を読み解くが、そんな牛河をもってしても、彼らの心の内まで知ることは出来ない。

 

《天吾の物語》

あなたが僕の実の父親であったにせよ、なかったにせよ、それはもうどちらでもいいことだ。天吾はそこにある暗い穴に向ってそう言った。どちらでもかまわない。どしらにしても、あなたは僕の一部を持ったまま死んでいったし、僕はあなたの一部をもったままこうして生き残っている。

 

吾の父親は、死の直前に生霊となって巷を彷徨うが、そこまでして何を伝えたかったのか天吾にも分からない。残された遺品には、NHK集金人時代の薄っぺらい記録と天吾の成長を刻んだ品々、そして彼が初めて目にする家族写真が1枚収められていた。

 

《青豆の物語》

「でもそれがその夜であったことに間違いはない。そして私が身ごもっているのはあなたの子供だと私は確信している。説明することはできない。でも私にはただそれがわかるの」

 

豆は、雷雨の夜に誰とも関係も持たずに受胎した。授かった小さな命には生身の肉体という以上の余計な意味も、理由も、使命も存在しない。天吾と共にこの小さな希望を育んでいきたいという願い、ただそれだけが彼女の心を占めていた。

 

【記憶の分有】

 この世の中には「理由のない生と死」「理不尽な境遇や運命」が存在します。そこに社会的な意味付けをして普遍化することを《記憶の共有》とするならば、個々人が想像力を働かせてその語り尽くせぬ事実をそのままに分かち持つことを《記憶の分有》と呼びます。

 

 誰しも他者と同じ立場に立つことはできない、他者が感じたように感じる事が出来ない状況のなかで、それでもなお、私たちは自分の立場という認識を押し広げ、あるいは自分の固有の痛みに読み替えて、他者の記憶を分かち持つことが出来ます。そうした《記憶の分有》は、どのような形で文学のなかに存在し、どのような意義を持ち得るでしょうか?

 

『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』

「神様はもしいたとしても、俺に対して親切だったとはとても言えない。しかし、にもかかわらず、その言葉は俺の魂の細かい襞のあいだに静かに浸みこんでいくんだよ。俺はときどき目を閉じて、その言葉を何度も何度も頭の中で繰り返す。すると気持ちが不思議に落ち着くんだ。『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』。悪いけど、ちょっと声に出して言ってみてくれないか?」

 

ングの箴言を添えられて牛河は理不尽な死を迎えた。「沈黙する神」は人為的な解釈を拒絶し、物事をありのままに受け入れる事を要求する。殺す者と殺される者の心理がせめぎあうこの壮絶なシーンをはじめとし、謎を謎のままに記述した物語全体を通じて、文学的メタファーが読者一人ひとりの記憶の中に還元し得る、という《記憶の分有》の一つの可能性を示唆している。

 

【魂を描く小説】

 さて、本書は架空の世界『1Q84』を舞台として、現実的なモラルの枠組みを取り払い、魂のレベルの事象を描いていますが、本質的には現実に起きた出来事に基づいて、私たちの社会の在り様を問題にしています。語りたいことはたくさんありますが、本ブログも作品同様に具体的事実を伏せたイニシャルトークのような状態になりそうなのでこのあたりでやめにしておきます。

 

 エンタメ小説として楽しむも良し、総合小説の深みを味わうも良し!村上文学における最も複雑多様な作品世界に一度足を踏み入れてみてはいかがですか!!