村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【フラニー】(『フラニーとズーイ』より)

Amazonより

 『フラニーとズーイ』は、J.D.サリンジャーのライフワークであるグラス家の七人兄弟姉妹の物語のひとつです。末娘のフラニーと五男のズーイに焦点をあて、若者たちが自己を探求し、社会とのかかわりについて向き合う姿が描かれていています。

 

 最初のパート『フラニー』は、恋人のレーンが駅のプラットフォームでフラニーの到着を待っている場面から始まります。二人は大学のフットボールの試合を観戦して週末を一緒に過ごす予定でした。しかしフラニーは、このところ何か固執した考えに取り付かれていて、出会った時から二人の間には感情的なすれ違いが生じています。

 

『ちっぽけなこきおろし屋』

 例えば、レーンは学部でA評価がついた論文をフラニーに読んでもらいたがるのですが、彼女は彼が「セクション・マン」のように語っていると言ってダメ出しをします。「セクション・マン」とはゼミの教授の臨時代行で、彼女に言わせれば「うぬぼれの強いちっぽけなこきおろし屋」です。

 

 フラニーはすぐさま暴言を吐いたことを謝罪して、実は専攻している英文学をやめる気でいる事を打ち明けました。レーンは彼女の英文科にこの国でもっとも優れた二人の詩人がいると言って引きとめますが、彼女は「彼らは本物の詩人ではない」と言って再び反論を繰り広げます。

 

「もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいことをしなくちゃならない。それを書き終えた時点で、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。そういうこと。でもあなたがさっき名前をあげた人たちは、そういう美しいものを何ひとつ、かけらも残してはいかない。」

 

 彼女のご高説は真っ当なものに聞こえますが、それを語る姿は「うぬぼれの強いちっぽけなこきおろし屋」そのものです。崇高な知恵や平穏を求めながら、利己的な心根を手放すことが出来ないという自己矛盾が押し寄せてきて、遂にフラニーはその場で気を失ってしまいます。

 

叙事詩の第一幕】

 フラニーは大学教育に幻滅しただけでなく、誰彼となくそれを口にせずにはいられない自分に苛立っていました。そんな心の拠り所として「ナム・アミダ・ブツ」に象徴される東洋的な宗教哲学に傾倒していきます。偽りの順応性や破壊性、エゴを脱して精神を浄化するために、意識を取り戻した後も、彼女はお祈りの言葉を唱え続けます。

 

 彼女がいったいどこまで「他力本願」の教義を理解しているのか? 本作を読んでもその辺りは定かではありません。昨年末のブログで私は「物語の力」について述べましたが、フラニーがどっぷりとはまった宗教哲学は「物語の力」の最たるものでしょう。しかし、彼女はその圧倒的な力に感化された末に、独善的な臭気を放ち始めています。こうした負の事態を引き起した原因は何なのでしょうか?

 

 そもそも、本作『フラニー』が発表された時にも、作品の解釈をめぐって様々な憶測が飛び交っています。当時はまだカルト被害が深刻化しておらず、フラニーの心理的呪縛は個人的な事情と見なされました。また、フラニーとレーンの性的関係を匂わせる文章から、精神的乱調の原因をマタニティーブルーだとする説も現れました。しかし、続くパートの『ズーイ』が発表されたことで、本作がグラス家を巡る叙事詩の第一幕であり、青年期の自意識という普遍的テーマが浮上してきます。

 

 そういえば、村上春樹の短編小説も、冒頭の作品が後に続く作品や長編小説のプロローグになっていることがよくあります。もしかしてサリンジャーの手法に倣ったのでしょうか? また、本書はスピリチュアリズムアイデンティティ、そして第二次大戦後のイデオロギーという裏テーマを比喩的に描いているとも言われています。どこまでそうした物語の背後に迫れるか分かりませんが、ともかく続けて後編の『ズーイ』をご紹介したいと思います。