ドロゴとはこの物語に登場する青年の名前です。詩人と思われる語り手の心象風景のなかに彼は現れて、言葉数少なめに詩人に詰問します。その相克は何を意味するのでしょうか? ドロゴの正体は何なのでしょうか? 残り少なくなった謎解きに引き続きお付き合いください。
《あらすじ》
ドロゴの父親はイタリア軍の中尉で東部国境に駐屯している。母親のマリアは私のもっとも親しい友人である。私はドロゴを実の息子のように思い、彼の成長に大きな役割を引き受けていた。私はドロゴを伴って旅をした。彼が私と共にいることで幸福な気持ちになれるのだとばかり私は思っていた。
『もうおしまいにしてしまいたい』
私は言った。「私がお前に『ローマとヴィラ』や『ローマ熱』や『ローマのひととき』を読んであげたときのことを。あの熱気と靄のことを思い出してごらん。ポルゲーゼ公園の草だってうとうととまどろんでいるように見えた。オスティアの海はあまりにも明るく輝いていて、空がそのまま燃え上がってしまいそうに見えたじゃないか」(中略)ドロゴは椅子の背にもたれかかった。「こんなことをもうおしまいにしてしまいたい」と彼は言った。
旅先で味わった喜びが、「私」を盲目にしていたのかもしれない。「私」は自分の権威や文学の有徳性を自明なものと捉え、彼をあたかも「私」の創造物のようにみなしていた。しかし、彼の為に選びとってきたはずの人生は、彼の苦悩の原因になっていた。
【反知性主義】
《反知性主義》とは、知的権威やエリート主義に対して懐疑的な立場をとる思想です。とりわけアメリカでは、偏った知性がもたらす寡頭支配に対する大衆の反感が根深いために、政治・経済・文化のあらゆる場面で、「とりすました貴族的なもの」と「野卑で庶民的なもの」が対立してきました。コーラやハンバーガーやジーンズの社会への浸透は《反知性主義》の熱狂ぶりを象徴しています。
本作には、知的権威の詩人と反知性主義のドロゴとの対立が描かれています。詩人のドロゴに対する愛情や誠実さに疑いの余地はありませんが、頭でっかちで野暮ったい言い回しはドロゴの心に響きません。一方のドロゴの反発は未熟で粗野なものですが、知の欺瞞に対する確信は揺らぎません。
人は誰しも知性(精神)と情緒(肉体)の相克を乗り越えて健全な社会を志向する
アメリカの大統領選挙などでしばしば見られる知性と反知性の対立は、私たちの目には奇異に映ることもあります。もしかするとそれは、私たちがいまだに権威主義に対して盲従する傾向にあるせいなのかも知れません。どうかこの先も、自由で平等な世界から私たちが取り残されたりしませんように、と願うばかりです(-_-;)