村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【ズーイ】(『フラニーとズーイ』より)

Amazonより

 先の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で社会の欺瞞に対して「ノー」を突き付けたJ.D.サリンジャーは、本書『フラニーとズーイ』では、若者たちの未来に向けて渾身の「イエス」を絞り出しています。世代を超えて読み継がれるイノセント・ストーリーの後編をご紹介します。

 

 『ズーイ』のパートは、先の出来事から二日経過したグラス家の朝から始まります。フラニーは週末を恋人と過ごすこともなく実家に戻り、そのまま寝込んでいました。心配した母親は五男のズーイに助けを求めますが、彼が語って聞かせる神学論はかえって彼女を混乱に陥らせてしまいます。

 

 例えば、フラニーが唱え続けるお祈りが、知恵や平穏の恩恵を目的としているなら、その姿は物質的な貪りを求める俗人と変わらないとズーイは批判しますが、フラニーは開き直って逆切れするばかり。

 

 さらにズーイは、自己中心的な人々に対するフラニーの個人的な次元の憎しみに対し、人々の欠点に反発するのではなくその背景にある社会の歪みやエゴイズムに立ち向かうべきだと諭しますが、フラニーはふてくされてそっぽを向いたまま。

 

『神聖なるチキンスープ』

「たとえもし君が外に出て行って、この広い世界のどこかにいる導き手をーーーグルだか聖者だかそんなものをーーー探しあてて、その人物に正しいイエスの祈りの唱え方を教えてもらおうとしたって、それがいったい何の役に立つだろう?だいたいもし君がそういう資格を持つ聖人に出会ったとして、君はどうやってその相手を本物だと見分けるんだ?鼻の先に神聖なるチキンスープを差し出されても気がつかないっていうのに?」

 

 『神聖なるチキンスープ』とは、母親から差し出されたにもかかわらず、それを煙たがってフラニーが口にしない食事について揶揄したもの。自意識の問題に思い悩むあまり、自分の殻に閉じこもる彼女が、周囲の気遣いに感謝し、自分も他人も愛せるようになるにはどうすればよいのでしょうか?

 

『君に今できるただひとつのこと』

「君に今できるただひとつのことは、唯一の宗教的行為は、演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神のために演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神の俳優になることだ。それより美しいことがあるだろうか?」

 

 最後にズーイは、受話器越しに(汗をびっしょりとかきながら)女優でもあったフラニーに、演劇の舞台に復帰するよう説得します。そして、どんなに醜くくて、愚かで、エゴにまみれて見えたとしても、人々の心のなかの神性に向けて演じることが本当の意味ある行為だと語ると、それ以上は言わずに口を閉じます。電話が切れた後もフラニーは受話器を耳に当てたまま、その余韻を味わうかのようにダイヤルトーンの音を聴き続けるのでした。

 

【呪縛からの解放】

 元はと言えばフラニーの精神的乱調は、兄たちの影響で刷り込まれた宗教観が原因でした。そのおかげで自分たちは『畸形人間』になってしまったとズーイは語ってますが、それは近年社会問題になった「マインド・コントロール」や「宗教2世問題」を想起させます。物語はこれについて、グラス家という特殊な家系のもとで起きたレアケースのように扱っていますが、今なら誰もがこれをリアルな問題として理解するのではないでしょうか。

 

 こうして考えてみると、本書のテーマを単なる《青年期の自意識》と軽々に決めつけることはできなくなりました。作者は「毒を持って毒を制す」ように、「スピリチュアルな呪縛からの解放をスピリチュアルな思想を介して成す」という手法で見事にこの難題を解決させています。謎に包まれた作家サリンジャーが醸し出すオーラがそれを導いていることは言うまでもありません。

 

 さて、今年も新年の始まりにサリンジャー作品をご紹介しました。ここを乗り切ればどんな難解本が現れても恐れるに足らず! というわけで、このブログは村上春樹の小説、翻訳、紀行文、エッセー、映画、舞台、漫画を全てご紹介するという試みに取り組んでいます。4年目に突入した本年もどうぞよろしくお願いします<(_ _)>