村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【イエスタデイ】(『女のいない男たち』より)

Amazonより

 『イエスタデイ』の替え歌が話題になった作品です。その歌詞は示唆的要望を受けて雑誌掲載時から大幅に削られてしまい残念ですが、以前の出だしを少しだけご紹介。

 

昨日は

あしたのおとといで

おとといのあしたや

それはまあ

しゃあないよなあ

 

『達者な関西弁』

 木樽は風呂に入るとよくビートルズの「イエスタデイ」に関西弁の歌詞をつけて歌った。田園調布で生まれ育った彼だが、子供の頃から阪神タイガースのファンで、好きが高じて達者な関西弁のしゃべりを身につけていた。

 

 その当時の「僕」は大学生で、木樽とは早稲田の正門近くの喫茶店でアルバイトをする仲間だった。浪人生の木樽には小学校の頃からつきあっている栗田えりかというガールフレンドがいて、彼女は先に現役で上智大学に入学していた。ある土曜日、「僕」は木樽にのせられて、栗田えりかと二人で映画を観て食事をする機会を得た。

 

『氷の月』

「私は同じ夢をよく見るの。私とアキくん(=木樽)は船に乗っている。長い航海をする大きな船。私たちは二人だけで小さな船室にいて、それは夜遅くで、丸い窓の外には満月が見えるの。でもその月は透明なきれいな氷でできている。そして下の半分は海に沈んでいる。」

 

 それから二週間ほどして木樽はアルバイトを辞め、姿を消した。実を結ぶことのない夢を見続ける木樽と栗田えりか。二人のあいだに生じた水面下の事情が判明するには、16年後の栗田えりかとの再会まで待たねばならない。

 

サリンジャー的世界観】

 本作には、大人の恋愛を拒んで人生の脇道に迷い込んでしまった青年の姿が描かれています。恋人との理想的な関係を求めつつも、社会の価値観に疑問を抱えてその先に進むことが出来ない木樽。そんな彼について、語り手の「僕」は自分がなしえなかった人生を歩むもう一人の自分と見なしています。

 

 木樽の生き方は特殊ではありますが、真摯で切実な想いがその根底にありました。物語は温かなユーモアを伴いつつ、若き日に現実社会の巨大な障壁を前にしたときの恐怖や苛立ちを呼び覚まします。それはまるで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『フラニーとズーイ』に描かれた青年期の葛藤を彷彿とさせます。

 

 本作が目指したのは、人としての成熟の手前で宙ぶらりんな状態で成立するあの《サリンジャー的世界観》を描くことだったのではないでしょうか。こうした物語を語るには関西弁が最も適していると村上春樹は常々考えていたようで、そのことを匂わせるセリフも登場します。

 

 さて、こうした心の原風景を呼び覚ますために『イエスタデイ』の替え歌は創作されました。決して原曲の価値を損なう意図はないのですが、結局のところ文学に向けられる無理解とはこんなもの。『それはまあ しゃあないよなあ』(*´з`)