村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑧木の中のフェイス】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 グレイス・ペイリーの文章を受け入れるには『いささかの顎の強さが必要とされる』と村上春樹は語っています。今回ご紹介する作品はまさにその通りで、次々に現れる登場人物の込み入った人間関係と時代背景を理解するために、何度も読み返すことになりました。あきらめずに食い下がることで見えてきたこの作品の概要をご紹介します。

 

《あらすじ》
所の公園で子どもたちと私(=フェイス)が無為に時を送っていた頃の話。私には二人の小さな男の子がいて、すべての愛情を彼らに注いできた。しかし、アメリカが裕福さかを越えて絶対的な帝国へと向って進んでいたこの時代に、私たち家族は「終わりなき文化的停滞状態」に押し込められていた。

 

『神様が造りたもうた女の一人として』

私は、神様がふと思いなおされて造りたもうた女の一人として、地上十二フィートの高さの、鈴懸の長い頑丈な枝の上に、足をぶらぶらとさせながら座っている。私にはキティーの姿しか見えない。キティーは母親業の仲間だ。この稼業では最高に腕がいい。(中略)もう一人の仲間であるアンナ・クラートはそのすぐ近くで、公園の硬いベンチに座り、憂鬱そうな、しかし美しい顔で、運勢が好転するのを待っている。

 

「私」は生意気な子どもたちを抱えて、頼ることのできる男を求めた。キティーは愛情深かったが、行きずりの男たちとの間に子供をもうけた。アンナは美人だったが、性格は最悪で男たちを惑わせた。その日に起こった物事は「私」のその後の人生を大きく変えるきっかけとなる。

 

【社会活動前史】

 1963年に出版した『新しい女性の創造』が反響を呼んだ作家のベティ・フリーダンは《ウーマンリブ運動》を牽引しました。彼女は多くの女性が「夫を見つけ、子どもを産む」こと以外に自己表現の手段が無いと指摘し、女性たちに新たな役割と責任を探求し、独自のアイデンティティを見つけることを奨励しました。

 

 フリーダンの活動は、性差別禁止法の可決や最高裁判決による人工中絶の権利の獲得など多くの功績を残した一方で、保守的な反対派を生み出しました。反対派の主張は「男女平等は法的手段を通して実現可能で、集団として男性を敵に回して闘う必要はない」というものでした。ウーマンリブは常にこうした正反の一進一退を繰り返して来ました。

 

 本作は社会活動の闘士となった「私(=フェイス)」が《ウーマンリブ運動》が始まる以前の日常を振り返るという設定です。ママ友同志のたわいもないおしゃべりは、人種・宗教・格差・環境・戦争を巡る正反の意見が飛び交うカオス状態。そんなフェイスに、息子の口から幼き声のエピファニー(啓示)がもたらされます。

 

 作品の中で何かに苛立ち興奮して喋りまくる主人公の姿には、現状に満たされない複雑な感情が投影されていると推察しますが、今の私の理解力では微妙な言葉の裏をこれ以上読み取ることは出来ないので、何らかの前向きな雰囲気を感じとったところで今回は読了。

 

 さて、次回から『社会活動家兼小説家』として生まれかわった主人公のフェイスが、家族や友人、周りの人々を巻き込んで新たなドタバタ劇を繰り広げていきます。その意味で、今回の作品は短編集の流れを変えるターニングポイントとなりました。わき目もふらず突き進む彼女の信念を支えているものは何なのか?彼女と子供たちに訪れる運命は何か?次回以降もご期待ください!