村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【②ああ、夢破れし街よ】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

Amazonより

 1950年代の雑誌「ザ・ニューヨーカー」は、サリンジャーカポーティー、オコナー、そしてチーヴァーといった面々によってアメリカ短編小説の黄金時代を築きました。そんな時代の勢いに乗って異彩を放ってきたジョン・チーヴァーの作品を引き続きご紹介します。今回は田舎から成功を求めて大都会のニューヨークへやって来た家族の話です。

 

『熱烈な歓迎』

 劇作家志望のエヴァーツはプロデューサーに認められ、中西部の田舎町からから家族を連れてニューヨークにやってきた。都会で目にするものごとに一喜一憂しながら珍道中を繰り広げる一行たち。プロデューサーの事務所に到着して熱烈な歓迎を受けるが・・・

 

「私たち、あなたのお芝居がとても気に入っているのよ、エヴァーツ」と彼女は言った。「気に入っているし、それを手に入れたいし、それを必要としているの。どれくらい私たちがそれを必要としているかおわかりかしら?私たちは負債を抱えているのよ、エヴァーツ、すごくたくさんの負債を」

 

 世事に疎いエヴァーツ夫婦のサクセス・ストーリーはとんでもない方向に逸脱していき、事態は不穏な様相を帯び始める。夢破れ、深夜列車に乗り込み、西へと向かう彼らが目指した場所は中西部の故郷? それともその先の新天地?

 

【暗黙のルール】

 エヴァーツは安易に二重契約を取り交わしてしまったために怒りを買い、ニューヨークから追放されてしまいます。1950年代のショービジネスの世界で起こる諸問題は、暗黙の業界ルールの下で処理される風潮があり、そうした閉鎖性はさまざまな謎や憶測を呼び、時にドラマチックな逸話を作り出してきました。本作はそうした業界事情を誇張してコミカルに描いています。

 

 1950年代ほどではないにしても、多かれ少なかれ私たちが所属するコミュニティーには暗黙のルールが存在し、持てる者と持たざる者の間には厳然としたギャップが存在します。そうしたほろ苦い経験を感慨深く振り返り、いくぶん風通しが良くなった今の世の中を眺めている自分は、まさに「不適切にもほどがある昭和のオヤジ」です。

 

 そう言えば、新入社員を迎える時期が近づいて来ました。フレッシュな彼らがいったいどんなギャップを味わい、どうやって乗り越えていくのか、優しく見守りたいと思います(´-`).。oO

 

【①巨大なラジオ】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

Amazonより

 アメリカ短篇小説の名手と言われたジョン・チーヴァーの作品をご紹介します。チーヴァーはニューヨーク近郊に暮らす中産階級の人々の人生の悲哀を描きました。細部を緻密に描写するそのタッチ。リアルな日常がいつしか幻想に代わる構成力。彼の作品には短編小説の醍醐味が詰まっています。

 

『プライバシーの漏洩』

 アパートの12階で平穏な暮らしを営むジムとアイリーンの夫婦。買ったばかりのラジオに雑音が混じるので業者を呼んで修理すると、雑音は感度を高めて人の声を捕らえ始めた。声の正体は同じアパートに暮らす住民たちの会話。盗聴器と化したラジオは、他人のプライバシーを漏洩し続けた。

 

「ああ、とても恐ろしいことだわ。とてもたまらない」とアイリーンはむせび泣きながら言った。「一日これを聞いていて、気持ちがすっかり落ち込んでしまった」「気持ちが落ち込むのなら、そんなもの聞かなければいいじゃないか。僕がこのラジオを買ったのは、君が愉しんでくれると思ったからだ」と彼は言った。

 

 住民たちのあからさまな言葉は、アイリーンの心を揺さぶって離さない。そこで再び修理をするとラジオは正常な状態に戻る。しかし、入れ替わるようにしてジムが妻の封印された醜い過去をあげつらい始めた。こうして平穏だったはずの彼女の暮らしは、奈落の底に引きずり込まれていく。

 

中産階級の抱える不安】

 アイリーンはグロテスクな秘匿情報を大量に吸収することで、深刻な無力感に襲われます。一部の週刊誌やワイドショーが報じる不道徳やプライバシー侵害が及ぼす心理的悪影響についてはたびたび議論になりますが、1950年代を舞台としたこの時代にもそうした問題が認知されていたことが伺えます。

 

 チーヴァーは当時の比較的裕福な生活を送る中産階級の読者に向けて、彼らの抱える漠然とした不安を物語の形にして見せました。それは今読み返しても心に響く普遍的な寓意を有しています。ピュリツァー賞や全米批評家協会賞を受賞した名作でありながら、明快で読みやすい作風も本書の特徴です。描写や構成といった文章力に長けた作者の力量によるものでしょう。

 

 さて、今回から本作を含む18編のチーヴァー作品をご紹介していきます。有害な情報が大量に出回る現代では、良質な物語に触れて心を耕していくことはとても大切なことではないでしょうか。本ブログも粗雑な解釈で消化不良を起こさないよう極力気を付けながら記述していきます。どうぞよろしく。

 

【イエスタデイ】(『女のいない男たち』より)

Amazonより

 『イエスタデイ』の替え歌が話題になった作品です。その歌詞は示唆的要望を受けて雑誌掲載時から大幅に削られてしまい残念ですが、以前の出だしを少しだけご紹介。

 

昨日は

あしたのおとといで

おとといのあしたや

それはまあ

しゃあないよなあ

 

『達者な関西弁』

 木樽は風呂に入るとよくビートルズの「イエスタデイ」に関西弁の歌詞をつけて歌った。田園調布で生まれ育った彼だが、子供の頃から阪神タイガースのファンで、好きが高じて達者な関西弁のしゃべりを身につけていた。

 

 その当時の「僕」は大学生で、木樽とは早稲田の正門近くの喫茶店でアルバイトをする仲間だった。浪人生の木樽には小学校の頃からつきあっている栗田えりかというガールフレンドがいて、彼女は先に現役で上智大学に入学していた。ある土曜日、「僕」は木樽にのせられて、栗田えりかと二人で映画を観て食事をする機会を得た。

 

『氷の月』

「私は同じ夢をよく見るの。私とアキくん(=木樽)は船に乗っている。長い航海をする大きな船。私たちは二人だけで小さな船室にいて、それは夜遅くで、丸い窓の外には満月が見えるの。でもその月は透明なきれいな氷でできている。そして下の半分は海に沈んでいる。」

 

 それから二週間ほどして木樽はアルバイトを辞め、姿を消した。実を結ぶことのない夢を見続ける木樽と栗田えりか。二人のあいだに生じた水面下の事情が判明するには、16年後の栗田えりかとの再会まで待たねばならない。

 

サリンジャー的世界観】

 本作には、大人の恋愛を拒んで人生の脇道に迷い込んでしまった青年の姿が描かれています。恋人との理想的な関係を求めつつも、社会の価値観に疑問を抱えてその先に進むことが出来ない木樽。そんな彼について、語り手の「僕」は自分がなしえなかった人生を歩むもう一人の自分と見なしています。

 

 木樽の生き方は特殊ではありますが、真摯で切実な想いがその根底にありました。物語は温かなユーモアを伴いつつ、若き日に現実社会の巨大な障壁を前にしたときの恐怖や苛立ちを呼び覚まします。それはまるで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『フラニーとズーイ』に描かれた青年期の葛藤を彷彿とさせます。

 

 本作が目指したのは、人としての成熟の手前で宙ぶらりんな状態で成立するあの《サリンジャー的世界観》を描くことだったのではないでしょうか。こうした物語を語るには関西弁が最も適していると村上春樹は常々考えていたようで、そのことを匂わせるセリフも登場します。

 

 さて、こうした心の原風景を呼び覚ますために『イエスタデイ』の替え歌は創作されました。決して原曲の価値を損なう意図はないのですが、結局のところ文学に向けられる無理解とはこんなもの。『それはまあ しゃあないよなあ』(*´з`)

 

【⑩そこに浮かぶ真実】(『人生のちょっとした煩い』より)

Amazonより

 本作は就職口を求めて怪しげな仲介屋と手を組んだ娘の物語です。奇想天外から落ちて来る滋味豊かな世界を描いてきた短編集の最後の作品をご紹介します。

 

『あいつはのしあがっていく』

 車上生活を送る正体不明の仲介屋。娘はその仲介屋の手練手管を頼って仕事を手に入れたが、雇い主は自己中心的で気まぐれな人物だった。その雇用をめぐる放漫経営ぶりに憤慨した娘は、仕事を辞めて仲介屋のもとへ戻って来る。

 

「俺は君をエドセル(=雇い主)のところに送り込んだ・・・・・・あの履歴書を書くには三日もかかったんだ。なぜなら俺は信じていたからだ。あいつはのしあがっていくし、あいつにくっついていれば、しっかりそのお相伴にあずかれるってな。」

 

 さしたる妙案もなく途方に暮れる娘と仲介屋。いつしか心を通い合わせ、車の中で一夜を明かした二人に別れの朝が訪れる。

 

【お昼間タイプ】

 この物語は若者世代の就労観に焦点を当てています。自由主義的な考えが行き渡るアメリカでは仕事の上で個人の成果や自己実現が重視されますが、その一方で競争に負けたり結果を出せなかった場合には、自己責任を問われる厳しい側面を併せ持ちます。社会に乗り出した若者たちは、こうした理念と現実のギャップを身をもって知ることになります。

 

 意気揚々と自立への第一歩を踏み出した娘に対して、自称職業コンサルタントの仲介屋は、まだまだ甘っちょろい「お昼間タイプ*1」と突き放しています。それでも初めての就労を通じて娘は社会の厳しさを知り、同時に弱者の痛みに思いが至った様子もうかがえます。

 

 1950年代の世相を描いた本作ではありますが、社会保障を置き去りにして自由競争の道を突き進むアメリカの姿勢は今も昔も変わりません。職や家を失ってぎりぎりの生活に踏みとどまる貧困層マネーゲームに興じる富裕層の格差は広がり続けています。この現実を直視しない限り、アメリカ社会の分断はこの先もますます深刻化していくことでしょう。

 

 さて、これでグレイス・ペイリーが世に送り出した3冊の短編集のうち2冊を本ブログでご紹介し終えました。残る1冊を近いうちにと思いつつも、フィッツジェラルドもカーヴァーもチャンドラーも紹介しきれていませんし、本家本元の村上作品もないがしろにできないし気もそぞろ。そんな時には『ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲め』 今流行りのタイムパフォーマンスなんぞ気にせず、ゆるりと参ります!(^^)!

*1:午前中にまとめて仕事を行い、午後は自己啓発や趣味の時間を持つような自由かつ気楽な働き方を志向するタイプ。

【⑨そのとき私たちはみんな、一匹の猿になってしまった】(『人生のちょっとした煩い』より)

Amazonより

 本作はニューヨークの下町で毒ガスを開発するオタク青年を主人公にした物語です。時代の証言者グレイス・ペイリーは、若者たちの間に生まれた狂気を書き留めます。

 

 その青年は父親の経営するペットショップで働くぱっとしない男でした。しかし、都市伝説や陰謀論を語らせれば、誰もが涙を流して傾聴するほどのカリスマ性を発揮します。そんな彼が期待を背負って最初に完成させたのは、とりたてて独創性のない「ゴキブリ隔離器」。彼と仲間たちは、次なる装置の開発に向けて実験を開始します。

 

『戦争減衰器』

「これはゴキブリ隔離器によって学んだことだ。平和を望み、五感の警告に耳を傾けるものだけが、幾世代もの敗北を通して生き残ることになる。核酸の中に惨めたらしい毒性を抱え込んだシラミの遺伝形質なんて、いったいどこの誰が必要としているんだ?」

 

 『ゴキブリ隔離器』の理念を引き継いで考案したという『戦争減衰器』。それは毒にも薬にもならない悪臭を発生させて、近所の住民を慌てふためかす装置だった。しかしその実験に想定外の事態が起こり、彼が世話をしていたペットショップの動物たちを死滅させてしまいます。

 

【普通ではない精神の資質】

 この青年のように、都市伝説や陰謀論を語る人の話術には時折感服させられるものがありますが、うさん臭さはぬぐえません。また、「毒ガス」といえば「地下鉄サリン事件」を思い浮かべ、嫌悪感を抱かせます。この物語はそうした要注意人物の愚にもつかない成れの果てを描いているのでしょうか? ところが物語は予想外な方向に展開します。

 

 作品の意味について問われたペイリーは『ああいうタイプの青年は実際にいたんです。当時でも、精神に異常をきたす若い人たちはいました』と答えています。村上春樹はあとがきで、『そのような狂気は(あるいはもっと広義に「普通ではない精神の資質」は)注意深く見渡せば、我々のまわりに比較的簡単に見いだせるものなのかもしれない。』と述べています。

 

 物語の後半は、この青年が収容された精神病棟の暮らしぶりが描かれます。彼は周りの人々の無理解に耐え、自分の中の『普通ではない精神の資質』と対峙しながら黙々と日々を送っています。唯一の感情の発露として動物たちの飼育に愛情を注ぎますが、やがて彼の中の動物倫理を目覚めさせてしまい、自らその役割を辞退してしまいます。

 

 読み始めからは想像もつかない、なんともやるせない結末でした。この青年のような異能の人々が満足に暮らしていくにはどうすればよいのでしょうか? その答えは見つかりませんが、孤軍奮闘する彼の姿にエールを送りたい気持ちになります。それにしても、ペイリーの小説はいつも予測不可能な展開を見せてくれます。あるいは、彼女の中の『普通ではない精神の資質』がこのような物語を書かせるのかもしれませんね。

 

【ドライブ・マイ・カー】(『女のいない男たち』より)

Amazonより

 短編集『女のいない男たち』の冒頭に収録されている作品をご紹介します。本作は濱口竜介監督によって映画化され、アカデミー賞国際長編映画賞を受賞しました。

 

『口数の少ないドライバー』

 通常であれば家福は女性の運転する車に乗ることを好みません。臆病さやその反動の大胆さ、緊張感といった彼女たちの気配を苦手にしていたからです。運転免許停止になった家福に紹介された渡利みさきの運転にはそうしたものが感じられないことから、愛車の代行運転を彼女に任せることにしました。

 

 ぶっきらぼうで、口数の少ない彼女の運転する車の助手席に座るようになって以来、なぜか家福は亡くなった妻のことをよく考えるようになります。家福と妻は俳優業を生業にしていて、仕事は順調で経済的にも安定していました。表面的には二人とも満ち足りた波乱のない結婚生活を過ごしてきたものの、時折妻は彼以外の男と寝ていました。

 

『口に出来なかったこと』

なぜ他の男たちと寝たりしたのか、その理由を妻が生きているときに思い切って聞いておけばよかった。彼はよくそう考える。実際にその質問をもう少しで口にしかけたこともあった。君はいったい彼らに何を求めていたんだ? 僕にいったい何が足りなかったんだ? 彼女が亡くなる数か月前のことだ。しかし激しい苦痛に苛まれながら死と戦っている妻に向かって、そんなことはやはり口にできなかった。

 

 妻が亡くなったあと、彼女のセックス・フレンドのひとりであった俳優の高槻に、家福は友だちを装って近づきます。それは妻がその男と寝た理由を知るためであり、男を懲らしめるためでもありました。ところが、憎むべき高槻から不意に発せられた曇りなき純真なる言葉は、家福の息苦しい気持ちを鎮めることになりました。

 

『僕らはみんな演技をする』

 時に私たちは、生身の人間が抱え持つ宿痾に傷つけられます。愛すべき人、信頼すべき人の背信行為は耐え難いものですが、その心に負った深い傷から立ち直るにはどうすれば良いのでしょうか。家福のようにその人の実像をとことん追い求めるか? 高槻の言うように自身の心を掘り下げて人の世の摂理を見つめるか? あるいは渡利みさきの助言に従い、すべては人の病のなせる業と諦めるか?

 

「そして僕らはみんな演技をする」と家福は言った。「そういうことだと思います。多かれ少なかれ」家福は革のシートに深く身を沈め、目を閉じて神経をひとつに集中し、彼女がおこなうシフトチェンジのタイミングを感じ取ろと努めた。しかしやはりそれは不可能だった。すべてはあまりに滑らかで、秘密めいていた。

 

 ものごとの事実と本質が乖離する世の中を、誰もが与えられた役を演じながら生きています。互いの演技の裏に隠された秘密が、憎しみの暗闇なのか、曇りなき純真なのか、知る由もなく・・・

 

 さて、本作を含む短編集『女のいない男たち』は、題名の通りのコンセプトで構成されています。深く愛した一人の女性がどこかに去ってしまったとき、どのようにして男たちはそれを理解し、悲しみ、傷を癒し、そして立ち直ることができるかといったモチーフが様々なシチュエーションで取り上げられます。不定期になりますが、次回以降ご紹介していきたいと思います。

 

 当ブログでは『映画:ドライブ・マイ・カー』のご紹介も行っています。よろしければ読み比べてみてください。

 


【⑧長くて幸福な人生から取った、二つの短くて悲しい物語】(『人生のちょっとした煩い』より)

Amazonより

 本作はグレイス・ペイリーの「フェイス・シリーズ」の第一作です。主人公のフェイスにはリチャードとトントという二人の息子がいて、彼女のパートナーは元の夫、新しい夫、ボーイフレンドなどその時々のシチュエーションで入れ替わります。記念すべき初回は2話構成。主要なキャラクターが登場し、その後に続くシリーズのプロローグ的作品になっています。

 

《第一話:中古品の子供たちを育てる人々》

 元の夫と新しい夫が揃って食卓に座り、卵料理が不味いと非難しています。フェイスが「じゃあ、自分で作りなさいよ」と言っても、二人はやれやれという感じで取り合わない。元の夫は、身持ちの悪いフェイスに「しっかり身を固めておいが方がいいぜ」などと言いたい放題。勝手なことをそれぞれ口にした後で、男たちは仲良く肩を並べて出て行いきます。

 

ふだんの私は、自らの運命におとなしく従って生きていくだけだ。それは要するに、命の有効期限が切れるまで、明るく笑いながら、男に仕えて生きていくことなのだが。

 

《第二話:少年期の問題》

 ボーイフレンドのクリフォードが、「君は子育てにしくじった」と批判したとき、彼女はついにぶち切れます。ガラスの灰皿を切り投げつけると、クリフォードの耳たぶは切り裂かれて血まみれに。普段は粗暴な男たちの言動をやんわりとやりすごすフェイスですが、一度怒りはじめるや手の付けられない修羅場が出現します。

 

「この間抜け、そんなこと、口が裂けても女に向かって言うべきじゃない。血を拭きなさいよ、馬鹿たれ。失血死しちゃうわよ」

 

フェミニズム勃興前夜】

 ここに描かれているのは1950年代のアメリカの景色です。戦火の記憶も生々しく、人種や階級の差別が堂々とまかり通る時代。肝の据わったフェイスですが、怒りを爆発させては子供たちとの温かな絆に鎮められるというガサツで不安定な日々を送っています。

 

 現代の視点で読むと、彼女の苛立ちの原因が男性優位の性別役割から来ていることは火を見ることよりも明らかです。しかし、当時の人々がジェンダーが差別であるという認識に辿り着くには、もう少し時代が経過する必要があります。作家グレイス・ペイリーはそんな時代の過渡期を見届けた証言者としてこの「フェイス・シリーズ」を記述していきます。

 

 さて、短編集の8作目にしてようやく社会の不公正に向かって闘いを挑むペイリーらしいヒロインが登場しました。その意味で、本作がこの短編集のピークを為す作品であることは間違いありません。高まる気持ちを落ち着けるためにも、次回は別の村上作品のご紹介を挟みたいと思います。