村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑦変更する事のできない直径】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 本作は個性的なグレイス・ペイリーの作品のなかでも、取り分けぶっとんだ内容になっています。不条理な小説世界に込められた寓意を探って行きたいと思います。

 

 エアコン設置業者のチャールズは、仕事で訪れた家で未成年のシンディーという魅力的な女の子に出会います。二人は親子ほどの年齢差にもかかわらず恋仲となり、肉体関係を持ってしまいました。

 

 シンディーの父はその事実を知ると激昂し、チャールズを刑事告訴します。法廷の場に登場したシンディーはチャールズの無罪を願い、自分が被害者でないことをけなげにアピールしてみせるのですが・・・

 

『わかった、わかった』

それに加えて私はーーー超然と、そしてまた腹の底からーーー自分の運命はもう決せられたのだと覚悟を決めていた。わかった、わかった、と私は世界に向かって言った。そして自分の内側に目を向け、投獄されることへの不安を克服した。

 

 覚悟を決めた被告チャーリーが処罰に異議を唱えていないにもかかわらず、無意味な法廷やり取りが延々と続きます。最終的に、シンディーから発せられた証言によって審議は暗礁に乗り上げてしまいました。うわべを繕うだけの調停案の行方を、冷めた目で見守るチャーリー。果たしてその結末はいかに?

 

【モラルの審理】

 語り手であり主人公のチャーリーは、衝動的に若い女性に手を出す人物として描かれます。彼の軽率な行動は社会の慣習に適合しないと見なされて裁判にかけられるのですが、告訴する側も弁護する側も、共にモラルを欠いているために判決に至ることができません。

 

 束の間の休廷のあいだチャーリーは考えをめぐらし、「自分が生命という大きな円周上の接線であり、円の中心に触れることも近づくこともできない」という着想を思い浮かべます。生命の摂理から遠ざけられているのはチャーリーだけでなく、世間体に縛られて二人の結婚を容認する父親もまた同じ。被告と原告の二人の心根を隔てる壁は、案外薄っぺらなものかもしれません。

 

 その一方で、本作は裁判のあり方そのものを皮肉っています。さまざまな感情や主観を持つ人物が関与する裁判は、事の真実を見極める場面では空転し、滑稽ともいえる状況に陥る始末。この裁判に限って言えば、モラルの審理に関しては、国家でも法律でも慣習でもなく、哲学や文学による解釈に分がありそうです。

 

 本書には、カミュの『異邦人』のような世界観が、短い文章のなかにギュッと押し込まれていて、そこからグレイス・ペイリー特有の奇抜で珍妙な登場人物たちが自由に動き回る姿を楽しむことが出来ます。本短編集の中でも一押しの作品ではないでしょうか。

 

【ズーイ】(『フラニーとズーイ』より)

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 先の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で社会の欺瞞に対して「ノー」を突き付けたJ.D.サリンジャーは、本書『フラニーとズーイ』では、若者たちの未来に向けて渾身の「イエス」を絞り出します。世代を超えて読み継がれるイノセント・ストーリーの後編をご紹介します。

 

 『ズーイ』のパートは、先の出来事から二日経過したグラス家の朝から始まります。フラニーは週末を恋人と過ごすことなく実家に戻り、そのまま寝込んでいました。心配した母親は五男のズーイに助けを求めますが、彼が語って聞かせる神学論はかえって彼女を混乱に陥らせてしまいます。

 

 例えば、フラニーが唱え続けるお祈りが知恵や平穏の恩恵を目的としているなら、その姿は物質的な貪りを求める俗人と変わらないとズーイは批判しますが、フラニーは開き直って逆切れするばかり。

 

 さらにズーイは、自己中心的な人々に対するフラニーの憎しみに対し、人々の欠点に反発するのではなくその背景にある社会の歪みやエゴイズムに立ち向かうべきだと諭しますが、フラニーはふてくされてそっぽを向いたまま。

 

『神聖なるチキンスープ』

「たとえもし君が外に出て行って、この広い世界のどこかにいる導き手をーーーグルだか聖者だかそんなものをーーー探しあてて、その人物に正しいイエスの祈りの唱え方を教えてもらおうとしたって、それがいったい何の役に立つだろう?だいたいもし君がそういう資格を持つ聖人に出会ったとして、君はどうやってその相手を本物だと見分けるんだ?鼻の先に神聖なるチキンスープを差し出されても気がつかないっていうのに?」

 

 『神聖なるチキンスープ』とは、母親から差し出されたにもかかわらず、それを煙たがってフラニーが口にしない食事について揶揄したもの。自意識の問題に思い悩むあまり、自分の殻に閉じこもる彼女が、周囲の気遣いに感謝し、自分も他人も愛せるようになるにはどうすればよいのでしょうか?

 

『君に今できるただひとつのこと』

「君に今できるただひとつのことは、唯一の宗教的行為は、演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神のために演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神の俳優になることだ。それより美しいことがあるだろうか?」

 

 ズーイは、受話器越しに(必死の汗をびっしょりとかきながら)女優でもあったフラニーに、演劇の舞台に復帰するよう説得します。そして、どんなに醜くくて、愚かで、エゴにまみれて見えたとしても、そうした人々の心のなかの神性に向けて演じることが本当の意味ある行為だと語ります。電話が切れた後、フラニーは受話器を耳に当てたまま、放心した状態でダイヤルトーンの音を聴き続けます。

 

【呪縛からの解放】

 元はと言えばフラニーの精神的乱調は、兄たちによって刷り込まれた宗教観が原因でした。そのおかげで自分たちは『畸形人間』になってしまったとズーイは語ってますが、それは近年社会問題になった「マインド・コントロール」や「宗教2世問題」を想起させます。物語はこれについて、グラス家という特殊な家系のもとで起きたレアケースのように扱っていますが、今なら誰もがこれをリアルな問題として受け止めるのではないでしょうか。

 

 こうして考えてみると、本書のテーマを単なる《青年期の自意識》と軽々に決めつけることはできなくなりました。作者は「毒を持って毒を制す」ように、「スピリチュアルな呪縛からの解放をスピリチュアルな思想を介して成す」という手法で見事にこの難題を解決させています。謎に包まれた作家サリンジャーが醸し出すオーラがそれに一役買っていることは言うまでもありません。

 

 さて、今年も新年の始まりにサリンジャー作品をご紹介しました。ここを乗り切ればどんな難解本が現れても恐れるに足らず! というわけで、このブログは村上春樹の小説、翻訳、紀行文、エッセー、映画、舞台、漫画を全てご紹介するという試みに取り組んでいます。4年目に突入した本年もどうぞよろしくお願いします<(_ _)>

 

【フラニー】(『フラニーとズーイ』より)

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 『フラニーとズーイ』は、J.D.サリンジャーのライフワークであるグラス家の七人兄弟姉妹の物語のひとつです。末娘のフラニーと五男のズーイに焦点をあて、若者たちが自己を探求し、社会とのかかわりについて向き合う姿が描かれていています。

 

 最初のパート『フラニー』は、恋人のレーンが駅のプラットフォームでフラニーの到着を待っている場面から始まります。二人は大学のフットボールの試合を観戦して週末を一緒に過ごす予定でした。しかしフラニーは、このところ何か固執した考えに取り付かれていて、出会った時から二人の間には感情的なすれ違いが生じています。

 

『ちっぽけなこきおろし屋』

 例えば、レーンは学部でA評価がついた論文をフラニーに読んでもらいたがるのですが、彼女は彼が「セクション・マン」のように語っていると言ってダメ出しをします。「セクション・マン」とはゼミの教授の臨時代行で、彼女に言わせれば「うぬぼれの強いちっぽけなこきおろし屋」です。

 

 フラニーはすぐさま暴言を吐いたことを謝罪して、実は専攻している英文学をやめる気でいる事を打ち明けました。レーンは彼女の英文科にこの国でもっとも優れた二人の詩人がいると言って引きとめますが、彼女は「彼らは本物の詩人ではない」と言って再び反論を繰り広げます。

 

「もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいことをしなくちゃならない。それを書き終えた時点で、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。そういうこと。でもあなたがさっき名前をあげた人たちは、そういう美しいものを何ひとつ、かけらも残してはいかない。」

 

 彼女のご高説は真っ当なものに聞こえますが、それを語る姿は「うぬぼれの強いちっぽけなこきおろし屋」そのものです。崇高な知恵や平穏を求めながら、利己的な心根を手放すことが出来ないという自己矛盾が押し寄せてきて、遂にフラニーはその場で気を失ってしまいます。

 

叙事詩の第一幕】

 フラニーは大学教育に幻滅しただけでなく、誰彼となくそれを口にせずにはいられない自分に苛立っていました。そんな心の拠り所として「ナム・アミダ・ブツ」に象徴される東洋的な宗教哲学に傾倒していきます。偽りの順応性や破壊性、エゴを脱して精神を浄化するために、意識を取り戻した後も、彼女はお祈りの言葉を唱え続けます。

 

 彼女がいったいどこまで「他力本願」の教義を理解しているのか? 本作を読んでもその辺りは定かではありません。昨年末のブログで私は「物語の力」について述べましたが、フラニーがどっぷりとはまった宗教哲学は「物語の力」の最たるものでしょう。しかし、彼女はその圧倒的な力に感化された末に、独善的な臭気を放ち始めています。こうした負の事態を引き起した原因は何なのでしょうか?

 

 そもそも、本作『フラニー』が発表された時にも、作品の解釈をめぐって様々な憶測が飛び交っています。当時はまだカルト被害が深刻化しておらず、フラニーの心理的呪縛は個人的な事情と見なされました。また、フラニーとレーンの性的関係を匂わせる文章から、精神的乱調の原因をマタニティーブルーだとする説も現れました。しかし、続くパートの『ズーイ』が発表されたことで、本作がグラス家を巡る叙事詩の第一幕であり、青年期の自意識という普遍的テーマが浮上してきます。

 

 そういえば、村上春樹の短編小説も、冒頭の作品が後に続く作品や長編小説のプロローグになっていることがよくあります。もしかしてサリンジャーの手法に倣ったのでしょうか? また、本書はスピリチュアリズムアイデンティティ、そして第二次大戦後のイデオロギーという裏テーマを比喩的に描いているとも言われています。どこまでそうした物語の背後に迫れるか分かりませんが、ともかく続けて後編の『ズーイ』をご紹介したいと思います。

 

【⑥人生への関心】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 本作は以前このブログでご紹介した『道のり(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)』の別バージョンです。前作でミセス・ラフタリーから語られたのとほぼ同じ内容がジニーの側から語られています。

 

 簡単におさらいを。ミセス・ラフタリーの息子ジョンは妻子を持つ身でありながら、夫に去られ4人の子供を抱えて生活に困窮する幼なじみのジニーと深い仲になってしました。ジョンとジニーの会話からこの短編集のタイトル『人生のちょっとした煩い』がつけられているのですが、短編集を代表するだけでなく、作者が追い続けるテーマが伺えます。

 

『人生のちょっとした煩(わずら)い』

 ある日ジニーは、テレビ番組『リッチになろう(経済的に困っている人々をスタジオに招き、クイズの正解に応じて現金をプレゼントする番組)』に出演しようと思い立ち、自分が抱えるトラブル・リストを作成する。しかし、それを見たジョンは彼女にこう言い放った。

 

「君だってあの番組を見たことはあるだろう?ここに書かれているのは、つまり『人生のちょっとした煩い』みたいなものでしかない。でもあの人たちはね、それこそとことん苦しんでいるんだよ」、彼はそう言って、私のリストに向って、小馬鹿にしたようにひらひらと手を振った。

 

 ジニーの番組出演は必ずしもジョンの援助の価値を損なうものではないのに、そこに潜む下心へのうしろめたさからか彼は彼女を引き留めにかかった。ひょっとすると、ジニーは番組に出演する気などはじめから無かったのかも? いずれにせよ、ジョンからの生活支援を一層確かなものにするために、このトラブル・リストが役立つ結果となった。

 

【物語の力】

 ペイリーのタッチが辛辣なためか、物語に登場する人々の生きざまは、どれもこれもおぼつかないものに見えます。生活に余裕なく、将来の展望なく、目先の利害に流される彼らが抱えるトラブルを『人生のちょっとした煩い』と言っていいのか分かりませんが、それはとりもなおさず私たちの日々の現実を率直に映し出しています。

 

 物語の終盤には、ほのぼのとしたエピソード(実は夢オチ)も添えられます。私は彼女の小説を読んでいると、自分自身の記憶と重なる宿命的な結びつきみたいなものを感じとることがあります。傍から見れば『深読みのちょっとした勘違い』でしかないと一笑に付されるのかもしれませんが。

 

 ただ、誤読や錯覚を伴いながらも、登場人物と同じ心境を重ねる記憶の刷り込みによって、過去のトラウマや、生き辛さのバイアスを書き換えてきたのも事実です。私にとって《物語の力》とはそういうものであり、この先もその恩恵に浴していきたいと思います。ブログを通じて同じ思いを感じてもらえたら嬉しいです。

 

 さて、2023年も残すところあとわずかとなりました。今年の収穫と言えば、ブログを書き上げるスピードが速くなり、たまにまともな文章が書けるようになってきたこと(^^;) そんなこんなで今年の投稿はこれにて終了します。一足お先にメリークリスマス!🎄 そして良いお年を!!🎍

 

【大いなる眠り】

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 本書はレイモンド・チャンドラー初の長編小説であり、私立探偵マーロウ・シリーズの記念すべき第一作目です。ハードボイルドと推理小説の融合という手法を試みた画期的な作品でもあります。

 

《あらすじ》
立探偵フィリップ・マーロウは、スターンウッド将軍から次女カーメンへの強迫を解決するよう依頼を受けた。謎の書店のいかがわしいビジネスの解明に強迫屋との危険な駆け引き、痴情のもつれが引き起こす銃撃事件。マーロウはロサンゼルス近郊を車で駆け巡って腐敗と陰謀のからくりを突き止めるが・・・

 

『好きでやってるわけじゃありません』

「好きでやってるわけじゃありません」と私は言った。「しかしそれ以外に何ができるというんです? 私は依頼を受けて仕事をしています。そして生活するために、自分に差し出せるだけのものを差し出している。神から与えられた少しばかりのガッツと頭脳、依頼人を護るためにはこづき回されることをもいとわない胆力、売り物といえばそれくらいです」

 

死に一生を得たあとで平然と放たれたマーロウのセリフ。この後、長女ヴィヴィアンの夫リーガンの失踪について疑問を抱くと自らの判断で捜索を再開する。カジノ経営の裏で手を結ぶヤクザと警察に殺し屋との決死の攻防。向こう見ずな正面突破で危機を乗り越える彼が最後に掴んだ真実は驚くべきものだった。

 

【20世紀の名著】

 1888年にシカゴに生まれたレイモンド・チャンドラーは、記者などの職を経て第一次世界大戦に従軍。その後、石油会社の役員になるが、私生活の問題で解雇され作家に転身します。1933年にパルプ雑誌で作家デビューを果たし、淘汰の激しいその世界で研鑽を積みました。

 

 パルプ雑誌の稿料は安価で、質より量がモットーとされる世界。編集方針の縛りに見切りをつけた彼は、一念発起して書き下ろしの長篇作品に挑みます。過去に書き溜めたモチーフを寄せ集めて3ヶ月という短期間に書き上げたのが本書です。束縛から解き放たれた文章は生き生きとして、登場人物の描写には個性と奥行きが備わったと訳者の村上春樹は評しています。歴史に残る名著*1はこうして誕生しました。

 

 本書を発表したときチャンドラーはすでに51歳。生活費を稼ぐために始めた作家稼業でしたが、苦労して独学で文体と物語を作り上げてきたおかげで唯一無二の世界観に到達することが出来ました。大仕事をやり終えたあとのマーロウのセリフ『好きでやってるわけじゃありません~』は、チャンドラー自身の不屈の闘志が滲み出たものではないでしょうか。

 

 ところで、複雑な筋書きに紛れて目立ちませんが、スターンウッド家のお抱え運転手テーラーの殺人事件は未解決のまま物語は完結しています。作者自身も口をつぐんだまま。後の映画化で主演となったハンフリー・ボガードは、そのシーンについて尋ねられると「俺だって知らねえよ」と答えたとか(笑)

 

 名作は後世に影響を及ぼすといいますが、本書は小説のみならずテレビや映画を席巻し、果ては原作を知らない人々にまで幅広くインパクトを与えました。司法捜査を巡るヒリヒリするほどのリアリティ、凡百の探偵物に対するアンチテーゼ、複雑不可解なんのその! 時代を切り開いた歴史的名著!! これを読まなきゃ始まらない!!!

*1:本書は『タイム』誌「百冊の最も優れた小説」、「ル・モンド」紙「20世紀の名著百冊」、英国推理作家協会『史上最高の推理小説100冊』などに選出されている。

【⑤コンテスト】(『人生のちょっとした煩い』より)

 

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 グレイス・ペイリーは同時代を生きる男女の姿を独創的なスタイルで語る方法を模索して本作を含む3つの作品*1を書きあげました。そうした創作を通じて、彼女は「文学の耳」と「生活の耳」の両方を手に入れたと言います。二つの耳が聞き取る身近な生活(の文学的響き)が彼女の初期の作品の中核となります。

 

 さて、本作には若い男女のフレディーとドッティ―が登場します。彼らが惹かれ合い反発し合う一風変わった日常がフレディーの一人語りで描かれています。

 

『百人の名前当てコンテスト』

 イディッシュ語の新聞で行われる『ニュースになったユダヤ人』というコンテストに、いっしょに応募して欲しいとドッティーが持ち掛けてきた。1等賞は賞金5,000ドルとイスラエル旅行。二人は見事に優勝を果たすが、賞金の受取りと旅行の権利は彼女一人だけだった。

 

僕が夢を抱いて、せっせと仕事に励んでいるあいだ、ドッティーピサの斜塔を眺めたり、ゴンドラに乗ったりすることにちょこまかとお金を使っていた。ロンドンがすっかり気に入って、そこに少なくとも二週間は滞在したらしい。そのような次第で、彼女が手にした賞金はそっくり外国人の手に渡ってしまった。

 

 フレディーはドッティーが帰国するその日を無視することに決め込んだ。女友達と遊んだり、ビールを飲んだり、朝刊・夕刊を隅々まで読んで気を紛らわしたりするが、寂しい気持ちは消え去らない。そのあと何日も仕事を休んだあげく、気持ちを抑えきれなくなった彼は手紙を書いた。

 

【男の視点・女の視点】

 フレディーは女たらしのモラトリアム青年で、知識と文才を鼻にかける自惚れ屋。彼から見たドッティーは、世間の枠にはまった退屈で残念な娘。連絡を絶ったことで、彼女が『自責の念でのたうちまわっているはずだ』と彼は負け惜しみの妄想をしますが、彼女への想いを断ち切れません。

 

 作者はフレディーの視点に徹してこの物語を描き切りました。そのため、フレディーが送った手紙に対して、ドッティ―が何を思って百ドル札1枚と、革製の書類入れと、スライド映写機を送ってきたのか判然としません。それは男の私に分からないだけで、女性読者ならその真意を読み取れるのかもしれませんが・・・

 

 一方、フレディーが拙い征服欲から女性蔑視の態度を繰り返していることは明らかです。彼女を愛おしく思う気持ちが、ことさら理知的な思考や、調和を乱すような行動へと彼を駆り立てます。このカップルの心の距離が縮まる日は来るのでしょうか? いずれにせよ、複雑な恋愛の駆け引きがペイリー特有の鋭い感性で記述されています。

 

 さて、本作の背景にはフェミニズム的な問題意識も多少感じられます。1950年代の世相が若者たちの恋愛観にどのような影を落としていたのか。日々の生活を聞き取る彼女の耳は、しだいに社会問題を聞き取る鋭い耳へと変貌していきますが、それについてはまた別の機会に。

*1:三つのうちの残り二つは先に本ブログでご紹介した『さよなら、グッドラック』と『若くても若くなくても、女性というものは』

【④いちばん大きな声】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 グレイス・ペイリーは、ニューヨーク生まれブロンクス地区育ちのロシア系ユダヤ人です。ブロックスユダヤ人のコミュニティー地区で、ロシア語とイディッシュ語と英語が同じくらいの割合で話されていました。彼女自身強烈なアクセントの英語を話し、小説の文体にもその響きが色濃く反映されたといいます。ユダヤ人であることは、彼女が創作するうえで大きな意味を持ちました。

 

 本作はアメリカに移住してきたユダヤ人が、彼らにとって異教の祝い事であるクリスマスについて論争する話です。ある日シャーリーは、先生から大きな声をかわれてクリスマスの劇で進行役に抜擢されました。ところが厳格なユダヤ教のコミュニティーの人々はキリスト教の劇に出演することに反対します。

 

『異文化の信仰心』

二人はイディッシュ語で論争をした。それからロシア語とポーランド語のごたまぜに移った。次に私(シャーリー)に理解できたのは、父さんの言葉だった。「いずれにせよだね、あんたも認めなくちゃいけないよ。私たちがこのようにして、異文化の信仰心に触れさせてもらえたというのは、間違いなく良きことだったじゃないか」「まあ、そうですけどね」とミセス・コーンブラーは言った。

 

 アメリカに住むからにはそれを認める必要があると判断した彼らは、しぶしぶシャーリーの出演を認めました。その後も彼女のクリスマス劇での活躍を巡ってざわつく人々。そんな喧騒の夜に思い描いた祈りを彼女は今も忘れずにいます。

 

【おやすみなさい。静かにね】

 本作には信仰の垣根を越えて、すべての人と喜びを分かち合いたいと願う少女の純粋な気持ちが描かれています。ユダヤ人としてのアイデンティティを守りつつ、普遍的な価値観を希求する作者の姿勢が少女に反映されているのは間違いないでしょう。

 

 物語のラストは『おやすみなさい。おやすみなさい。静かにね』と眠るの前のお祈りの声を張り上げるシャーリーに『お前こそ静かにしなさい』と父親がたしなめるほほえましいシーン。2023年12月現在、戦闘を続けるイスラエルパレスチナの人々にそうした祈りが聞き届けられる日は来るのでしょうか? ふとそんな妄想が頭を過って切ない気持ちになりました。

 

 宗教的な観点から見れば、クリスマスはキリストの降臨を祝うキリスト教徒にとって重要な日であることは言うまでもありません。その一方で広く愛や慈善の精神が共有され、異なる信仰や異なる文化の人々が盛大に喜びを分かち合う文化的、商業的イベントとして捉えられています。私自身は単純にそういうものだと受け入れてきましたが、どうやらそれは寛容と非寛容を計るバロメーターにもなっているようです。

 

 シャーリーの父さんの言葉がなるほどと腑に落ちたので最後に引用しておきます。

 

「結局のところ、歴史は万人に教えを与えるものなんだ。私たちは本を読んで、これは異教の時代から受け継がれてきた祭日であるということを知る。蝋燭、明かり、ハヌーカ*1だってひとつの原型になっているんだ。クリスマスも、隅から隅まですっかりキリスト教徒の祭りってわけじゃない。だからもし連中が、クリスマスというのは身内だけのものだと思い込んでいるとしたら、それは排他的っていうより、ただ無知なだけなのさ。」

 

*1:ハヌーカキリスト教クリスマスとほぼ同じ時期に祝われるユダヤ教の行事。クリスマスプレゼントのように子供に「ハヌ—カ・プレゼント」を与えたり、クリスマスツリーに似た「ハヌーカ・ブッシュ」と呼ばれる常緑樹を飾ったりする