村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【①誕生日の子どもたち】(『誕生日の子どもたち』より)

Amazonより

 トルーマン・カポーティの短編集『誕生日の子どもたち』から、南部の小さな町に突然現れた少女を通して、人々の憧れや幻想、そして成長とともに失われていく純粋さを描いた物語をご紹介します。

 

 舞台は1930年代のアメリカ南部、アラバマ州の小さな町。そこへ10歳の少女、ミス・ボビットが母親とともに引っ越してきます。彼女は派手な服を着て、大人びた言葉を話し、町の人々を驚かせます。

 

『ジェントルマンというものは』

 ある日、少年たちが黒人の少女をからかっていた場面で、ボビットは彼らを厳しく叱りつけます。

 

「誰もが知っていることですが、ジェントルマンというものはレディーを護るためにこの世界に置かれたのです。あなたがたはメンフィスで、ニューヨークで、ロンドンで、ハリウッドで、パリで、こんなことが行われていると思いますか?」

 

 その気品ある叱責に少年たちは圧倒され、からかわれていた少女も次第にボビットと行動を共にするようになります。最初は奇妙に見えたこの二人の組み合わせも、町の人々に少しずつ受け入れられていきました。

 

【世界を輝かせる一瞬】

 ボビットは、自分は映画界へ行く特別な存在だと語って支援を要求します。その言葉が真実なのか、ただの空想なのかは分かりません。しかし、閉鎖的な田舎町で暮らす人々にとって、彼女は「外の世界の輝き」を運んでくる存在でした。芝居がかった振る舞いも、どこか魅力的で、人々は彼女に淡い憧れを抱きます。

 

 しかし物語は、思いがけない形で幕を閉じます。学校に通うことを拒み、「悪魔との取引にも応じる」と言ってはばからないボビット。彼女は本当に特別な少女だったのか。それとも、大人たちが勝手に幻想を重ねていただけなのか。物語は最後までその答えを示しません。

 

 私はこの作品を読みながら、スウェーデンの環境活動家グレタ・トゥーンベリを思い出しました。

 

 15歳の少女が国連で堂々と演説し、大人たちに向けて強いメッセージを発した姿が今でも強烈な印象として残ります。世界は彼女の言動に注目し、同時に「子どもはどこまで社会参加できるのか」「学ぶ権利と政治参加の関係はどうあるべきか」といった議論が巻き起こりました。

 

 しかし現実には、そうした本質的な議論よりも、彼女の個人的なパーソナリティーへの批判や、不毛な政治的対立が先行してしまったように思えて、残念でなりません。

 

 カポーティは本作の中で、「無垢な存在が放つ一瞬の輝き」と「その輝きが失われていく残酷さ」を描きました。その構図は、現実の世界で起きた出来事とオーバーラップして見えます。だからこそ、カポーティの物語を読むと、その洞察の深さに唸らされずにはいられないのです。