村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【サン・フランシスコで何をするの?】『頼むから静かにしてくれ』より

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カーヴァーの作品では《話し言葉》が効果的に用いられ、時には本作のようにタイトルに使われることもあります。この《話し言葉》が持つ曖昧さは、《書き言葉》のような筋の通った明確さとは異なり、釈然としない気分にさせる事もあるのですが・・・。いつものように作者の仕掛ける企てに翻弄されながら、物語を読み解いてみます。

 
《あらすじ》
人の子供を持つビート族風*1の若い夫婦が、去年の夏の初めに郵便配達人である私の配達ルート上にある家に引っ越してきた。私は彼らの生活を観察しながら、次第にその夫婦に対する印象を抱いていく。特に夫が仕事をしていないことを問題視しており、その責任の一端は妻にもあると考えている。あの女がそれを助長しているのだ。

 

『サン・フランシスコで何をしたの?』

「サン・フランシスコですか。私もこないだサン・フランシスコに行きましたよ。ええとあれは去年の四月か三月だったな」「へえ、そうなの?」と彼女は言った。「サン・フランシスコで何をしたの?」「いや、何をするていうわけでもなくてね。年に一度か二度あっちに行くんです。フィッシャーマンズ・ウォーフに行って、ジャイアンツの試合を見るんですよ。それだけです」しばし沈黙があり、それからマーストンは草の中にある何かを・・・

 

が何気なく口にした「サンフランシスコで何をしたの?」という言葉を、郵便配達人は「都会風を吹かして人を見下す言葉」として受け取ったようです。こうして土地に長く暮らす人と外からやってきた人の間に、小さな誤解や偏見を生んでいきます。

 

【田舎のネズミと都会のネズミ】

 この作品は、イソップ寓話『田舎のネズミと都会のネズミ』の現代版のようにも感じられます。田舎に住む者から見た都会の人々の生活——その複雑さや羨望、そして微妙な隔たりを描いているようです。

 

 作品の語り手である「私」は、やや歪んだ視点を持ちながらも、若い夫婦の生活や価値観を描写していきます。そして、読者は語り手の偏見や《話し言葉》のもつ曖昧さを乗り越え、最終的には夫が抱える絶望感を目の当たりにします。このような二重構造を読み解く面白さは、カーヴァーのスーパーリアリズム的な文体と、確かなモラルに裏打ちされた作家性があってこそです。

 

 イソップの寓話について言えば、幼い頃に聞かされた最後のセリフは「幸せの形は人それぞれ」というものでした。大人になった今、その素朴な言葉に込められた深い教訓をしみじみとかみしめています🐭

*1:第二次大戦後、米国を中心に現れた規範的な服装や行動を嫌い、反体制的・反商業主義的な議論を好む若者たち。このライフスタイルがさらに大衆化したものがヒッピーと言われる。