村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑥薄暗い運命】(『恋しくて』より)

 リュドミラ・ペトルシェフスカヤは現代ロシアを代表する女性作家です。リアリズム的作品から幻想小説や童話まで精力的に執筆。2010年の世界幻想文学大賞*1をはじめとる受賞歴多数、国内外で高い評価を受けています。

 

 今回はポストモダン等の文学の潮流についてのコメントは一旦保留にして、政治的迫害を受けながらも、ロシアの現状を描き続けてきた作家のラブ・ストーリーをご紹介します。

 

《あらすじ》
30代の未婚の女は、男を呼ぶために同居している母親に一晩だけアパートから出て行ってもらった。先行きのあやしい仕事に就き、親のすねを齧りながら妻と年頃の娘を養う、健康にいささか問題を抱えた42歳。彼女がアパートに招いて愛の一夜を過ごした相手とはそんなさえない男だった。

 

『私は男の人とつきあっている』

翌日彼女はカフェテリアには行かず、自分のデスクで昼食をとった。その日の夜のことを考えた。また母親と顔を合わせ、いつもの暮らしに戻るのだ。彼女は突然、同僚に向って話しかけた。「ねえ、あなた、新しい男は見つかった?」と。相手の女は恥ずかしそうに顔を赤らめた。「いいえ、まだよ」(中略)「あなたの方は?」と同僚は尋ねた。「私は男の人とつきあっている」と女は答えた。喜びの涙が彼女の目に溢れた。

 

は二度と彼女のところに戻ってはこない。それが現実であることを彼女は骨身に沁みて知っている。しかし、『私は男の人とつきあっている』と口にした時、彼女のなかで何かが蘇生した。この日を境に彼女の薄暗い運命が始まる。

 

【愛される価値】

 人は誰しも周りから認められたいという欲求を抱えつつ生きています。子供の頃に親からの愛情を求めた「自己愛」は、大人になるにつれ「承認欲求」へとシフトしますが、ひとたび社会に身を置いた私たちは、他者に認められなければ「承認欲求」という自己の存在価値を手にすることはできません。

 

 その数ある他者の中でも「恋人」はとりわけ特別な存在です。「恋人」に受け入れられるということは、あらゆる毀誉褒貶をはねのけ「自分が自分である」ということだけで「承認欲求」が満たされるからです。純粋に、無条件に「恋人」から愛されるとは、役に立つとか、才能があるとか、愛想がいいといった理由を必要としないが故に、すべての「承認欲求」を超越した特別な価値を持ちます。

 

 物語に登場する女性は「その男」について話しているうちに思いがけず「愛される価値」を見出して陶酔感に浸ることが出来ました。それは事実から乖離した幻想であるにも関わらず「私が私であるという理由であの男は私を愛してくれた」という《ロマン的世界》を偽造します。そしてこの《ロマン的世界》の魅惑を味わい尽くそうとして、彼女は男へのストーカー行為という沼にハマっていきます。

 

 恋人幻想★★  魅惑のロシア文学★★★ 

 

 本作は短編集『恋しくて』のなかでもダントツでダークなラブ・ストーリーです。その救いの無さにもかかわらず、不思議なポジティブさが感じられるのはなぜでしょうか? 『薄暗い運命』が象徴しているものは何なのでしょうか? そして何よりも、国家が彼女の作品を危険視して排除しようとした理由は何なのでしょうか? 本作は短い物語の中に私たちの想像力を刺激する謎がちりばめられた魅力的な作品です。

*1:世界幻想文学大賞は、ファンタジー作品を対象としたアメリカの文学賞ヒューゴー賞ネビュラ賞に並ぶ三大賞のひとつ。2006年に村上春樹が『海辺のカフカ』で受賞している