村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【騎士団長殺し(第1部「顕れるイデア編」)】

Amazonより

 村上春樹の長編小説騎士団長殺し』を、2回に分けてご紹介します。

 

 本書は『ドン・ジョヴァンニ』をオマージュしたです。主人公の「私」は、派手な立ち回りこそないものの、ドン・ファンのような性に開放的な自由人として描かれます。日本画家の雨田具彦や、資産家の免色渉と深く関わりながら、「私」はやむを得ず『騎士団長のイデア』を殺めてしまいます。その後、「私」を待ち受けていたのは、地獄さながらの「異界巡り」でした。

 

 ミステリーやSF、歴史、哲学、文芸の要素に加え、親子や夫婦の愛が絡み合い、深みを増した村上作品の世界をご一緒に味わってみませんか。

 

『騎士団長のイデア

 妻に去られた「私」は、雨田智彦のアトリエを借りて孤独な一人暮らしを始めます。ある日、みみずくの鳴き声がする屋根裏で『騎士団長殺し』というタイトルの日本画を発見し、鈴の音に導かれて、裏の祠の下に隠された石室を見つけます。日本画と石室の発見をきっかけに、騎士団長のイデアが顕れました。

 

「雨田具彦の『騎士団長殺し』の中では、あたしは剣を胸に突き立てられて、あわれに死にかけておった」と騎士団長は言った。「諸君もよく知ってのとおりだ。しかし今のあたしには傷はあらない。ほら、あらないだろう?だらだら血を流しながら歩き回るのは、あたしとしてもいささか面倒だし、諸君にもさぞや迷惑だろうと思うたんだ。絨毯や家具を血で汚されても困るだろう。だからリアリティーはひとまず棚上げにして、刺された傷は抜きにしたのだよ。『騎士団長殺し』から『殺し』を抜いたのが・・・(以下略)」

 

 この奇妙なしゃべり方をする騎士団長に圧倒され、「私」は一言も言葉を発することができません。それ以来、現実と非現実の境界が曖昧になり、さまざまな不思議な出来事に巻き込まれていきます。

 

ドン・ジョヴァンニ

 モーツアルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ』のあらすじを簡単にご説明します。

 

 ある夜、ドン・ファンはドンナ・アンナの部屋に侵入し、彼女を誘惑します。アンナの父親である騎士団長が駆けつけますが、返り討ちに遭い、命を落とします。その後、墓地で騎士団長の彫像を見かけたドン・ファンは、冗談半分で彫像を夕食に招待します。すると、自宅での晩餐の最中に騎士団長の彫像が現れ、ドン・ファンを奈落の底へ引きずり込みます。

 

 『ドン・ジョヴァンニ』にはいくつかの解釈があります。例えば、ドン・ファンは放蕩者であり、その無節操な行動と無責任な態度が破滅を招いたという道徳的な教訓です。本書で言えば、『白いスバル・フォレスターの男』の幻影が「私」を無言で見つめる場面が該当します。これは「私」が自分の中に抱える最も重要な問題に向き合うことへの恐れを示していて、その隠蔽によって破滅を回避してきたという罪の意識に触れています。

 

 一方で、ドン・ファンは社会の規範に従うことを拒否する自由意志の象徴とも解釈されます。この見方は、個人の自由とそれを脅かす抑圧についての問題提起となります。本作では、「私」が『顔のない男の肖像画を描く』という使命を与えられ、全体主義の犠牲となった雨田智彦や、不公正な国家権力に苦しめられた免色渉の過去を解き明かす中で、社会が抱える深刻な問題が浮き彫りにされていきます。

 

『真実とはすなわち表象』

 本作には『ドン・ジョヴァンニ』以外にも、『グレート・ギャツビー』や上田秋成の『春雨物語』が取り入れられています。村上作品は難解だと思われがちですが、本書に関しては、少しの予備知識があれば、「お約束」に沿って描かれる場面や設定を楽しむことができるでしょう。物語を楽しむには、その裏に隠された意味を探るだけでなく、物語のイメージ(表象)をそのまま受け取ることも重要です。騎士団長のイデアも次のように語っています。

 

「真実とはすなわち表象のことであり、表象とはすなはち真実のことだ。そこにある表象をそのままぐいと呑み込んでしまうのがいちばんなのだ。そこには理屈も事実も、豚のへそもアリの金玉も、なんにもあらない。人がそれ以外の方法を用いて理解の道を辿ろうとするのは、あたかも水にザルを浮かべんとするようなものだ。」

 

 次回は『第2部「遷ろうメタファー編」』に移ります。物語の表象を分かりやすくご紹介したあとで、その裏に隠された意味について少しだけ言及したいと思います。引き続きお楽しみください。