村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑰四番目の警報】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

Amazonより

 今回ご紹介する作品は、1960年代の若者文化をテーマにしています。この時期、アメリカではヒッピー文化や反戦運動など、伝統的な価値観を覆す新しい潮流が登場していました。本作は、このような時代の変化に対する作者ジョン・チーヴァー自身の心の内を浮かび上がらせています。

 

『裸のアイデンティティ

 語り手は、アッパーミドルクラスの伝統的な価値観を持つ郊外住民の男性です。彼の妻であるバーサが出演する舞台『オザマニデス二世』には、キャストと観客の両方で性交を模倣するという過激なシーンが含まれていて、男性は困惑します。

 

「そこで見知らぬ人たちの前に裸で座って、私は生まれて初めて自分を発見したような気がした。私は裸の中に自分自身を発見したの。自分が新しい女性に生まれ変わったように、より良い女性に生まれ変わったみたいに感じた。恥ずかしさを感じないというのは、これまでの人生においていちばんわくわくさせられることだった・・・」

 

 男性は妻の言葉にショックを受け、離婚を決意します。しかし、ニューヨーク州の法律の下では離婚理由に法的な根拠がなく、弁護士も見つかりませんでした。

 

ノスタルジアの感覚』

 ある日、男性は妻の出演する公演を観劇します。上演中、彼は子供の頃に夢中になった映画『四番目の警報*1』の単純素朴なノスタルジアに浸っていました。

 

裸であることはーーーそのスリルはーーー彼女のノスタルジアの感覚を消滅させてしまったのか? ノスタルジアこそはーーー目がくっつきすぎているにもかかわらずーーーバーサの主要な魅力のひとつだった。何かの経験の記憶を、別の時制の中に優雅に運び込むことは、彼女の持つ天与の才能だった。公衆の面前で、見ず知らずの裸の人に乗っかられながら彼女は、僕らが愛を交わした場所のどこかを思い出していただろうか?

 

 男性は、ノスタルジア漂う以前の妻に戻ってほしいと願いますが、裸になって舞台に上がるよう促す呼び掛けに応じて、彼もそそくさと服を脱ぎ始めています。

 

カウンターカルチャーの胎動】

 語り手の妻が出演する『オザマニデス二世』は、1960年代に上演されたミュージカル『ヘアー』を原型にしています。それは、ベトナム戦争中のアメリカを舞台にヒッピー文化や反戦運動を描き、カーテンコールで観客を舞台に引き上げて踊る演出が特徴的でした。小劇場での初演から始まり、ブロードウェイに進出し、瞬く間に世界中で上演されるヒット作になりました。

 

 物語の中で見せる男性の反応は、チーヴァー自身の価値観や生い立ちを反映しているように思われます。劇場から雪の降る外に出た男性は、「保全と達成の感覚」をもたらすスノータイヤ付きの自分の車に気持ちを奮い立たせます。小さな劇場の素人舞台は、「保全と達成」からはほど遠い。しかし、むしろそうした描写からは、カウンターカルチャーの胎動に慄きを隠せない男性(=作者)の心境が伝わって来ます。

 

 ところで、数々の村上作品を通じて、女性の性的解放にいくらか免疫が身に付いた私でも、本作に登場する妻の大胆さには驚かされました。ミュージカル『ヘアー』を調べてみると、出演者たちのヌードや薬物使用のシーンが、その当時も物議を醸したことが記事になっています。

 

 1960年代のカウンターカルチャーは、最終的に凡庸なファションの一部と化します。人目を引く話題性と、そこに群がる商業主義の白熱ぶりは、一時的なものに過ぎませんでした。それでもなおチーヴァーは自分が時代の流れから取り残されつつあることに不安を感じて、新たな創作の方向性を探り続けます。そうした情熱の行き着く先は何処でしょうか? 最後までご一緒に見守って頂ければ幸いです。

*1:19世紀後半の馬が引く消防車から20世紀初頭の電動消防車への移行をドラマ化した映画という設定。「第四警報」が馬チームの出動を高らかに告げ、街を大火の破壊から救う。