村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑱ぼくの弟】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

Amazonより

 短編集の最後の作品をご紹介します。この作品はジョン・チーヴァーの初期のものですが、彼の独特なスタイルとテーマが既に反映されています。

 

 物語には、理屈っぽくて暗い性格の弟と、それに苛立つ兄が登場します。この二人の緊張関係は、単なる家族内の問題を超えたものを示唆しています。物語が進むにつれて、弟の言動を通じて、語り手である兄のオルターエゴ(もう一つの自我)が浮かび上がってきます。

 

『ああ、もうがまんできない』

 毎年夏になると、一家は別荘に集まります。今年の夏は、数年間疎遠だった末っ子のローレンスが妻と子供を連れて戻ってきました。夕食の席で、母親が別荘の改修について話すと、ローレンスはこの家が崖の上にあり、浸食が進んでいて危険だと主張します。

 

「もっと当たり障りのない話をしましょう」と母は苦々しい声で言った。「政治とか、ヨットクラブのダンスの話とか」「はっきり言えばね」とローレンスは言った。「この家は現在でもたぶん危機的な状況にある。もし尋常ではない高い波が来たり、ハリケーンに襲われたりしたら、堤防は崩れて、家は押し流されてしまうだろう。全員が溺死しかねない」「ああ、もうがまんできない」と母は言った。

 

 ローレンスが口にする話題は、リラックスして休暇を過ごしたい他の家族を不快にさせてばかりです。家族たちは高額を賭けたバックギャモンに興じたり、ボートハウスでのダンスを楽しんだりしながら、ローレンスとの会話に嫌気が差すたびに席を立って海へ泳ぎに行きました。

 

【禁欲主義と快楽主義】

 ジョン・チーヴァーは1912年、マサチューセッツ州クインシーで生まれました。彼は厳格な清教徒的な家庭で育ち、親族の中には人間の本質やこの世的の楽しみを否定する原理主義者もいました。しかし、チーヴァー自身はそうした価値観を否定し、作家としての目的を次のように述べています。

 

私の親族たちの中に、人生の核心には耐えがたく忌まわしいものがあり、愛や友情やバーボン・ウィスキーや、なんらかの明るさを持つようなものはすべて、無意味で馬鹿げた欺瞞だと考えている人たちがいることを知っている。私の作家としての目的は、そのような姿勢の緩和をーーーもし必要だと思えばそこからの逃亡をーーー記録することだった。(『何が起こったか?』より)

 

 本作は、チーヴァーの内的葛藤を如実に表現していて、彼の文学の真髄が感じられます。兄が弟を殴り、血まみれの弟が去っていくシーンは、禁欲主義と快楽主義の対立と分裂を象徴していて、チーヴァーが作家として追い続けたテーマが垣間見えます。

 

 チーヴァーは、郊外に住む中産階級の憂鬱を描くスタイリッシュな作家として知られていますが、彼の作品には、原理主義からの解放や逃避が意図されたものが多く、物語にしばしば現れるカフカ的不条理は、彼の生い立ちや内面の葛藤に由来するものです。

 

 この作品以降、彼の作品はさらに深みを増していきますが、『不快な弟(=オルターエゴ)』が再び登場することはありません。ここには、個人的な感情を超えて普遍的な文学を追求する職業作家としての矜持が感じられます。半年間に及んだジョン・チーヴァーの短編作品のご紹介をこれですべて終えるました。最後までお付き合いいただきありがとうございます。

 

 最後に、チーヴァーの経歴の続きを記します。

 

 1956年・1964年、オー・ヘンリー賞を2度受賞。

 1958年、初の長編小説『ワップショット家の人びと』が全米図書賞を受賞。

 1979年、短編集『The Stories of John Cheever』がビューリッツァー賞を受賞。

 1982年、癌のため70歳で死去。