村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【クリーム】『一人称単数』より

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【要旨】

  引き続き作品の要旨を”超訳”でご紹介します。

  

  • 謎の老人の語る神学的弁証論が、若き日のぼくに問いかける。
  • 「中心がいくつもあってやな、いや、ときとして無数にあってやな、しかも外周を持たない円のことや」
  • 人を愛し憐れみ理想を抱くときに、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを受け入れるのだ。

 

【読みどころ】

  偽りのピアノ・リサイタルに招待された『ぼく』は、悪意さえ感じられる不合理な状況に置かれ、心を激しくかき乱されます。過呼吸のパニックまで起こした『ぼく』の前に謎の老人が登場して、次の言葉を投げかけます。

 

「中心がいくつもあってやな、いや、ときとして無数にあってやな、しかも外周を持たない円のことや」と老人は額のしわを深めて言った。「そういう円を、きみは思い浮かべられるか?」

 

 パスカルの著書『パンセ』に、《無限の宇宙の永遠の沈黙》の喩えとしてこれによく似た記述があります。合理主義を排して神学的弁証論を信奉した言葉とされていますが、ボク自身は『パンセ』をしっかりと読んだことがないので深入りはしませんが、その一文を引用しておきます。

 

果てしない宇宙の広がりのなかで、中心となる足場も持たない私たちの思いは、どこにも届くこともなく沈黙のなかで失われていく(『パンセ』より)

 

 さて、この物語の読みどころとしては『外周を持たない円』について『ぼく』が語った次の言葉を押したいと思います。

 

たとえば心から人を愛したり、何かに深い憐れみを感じたり、この世界のあり方についての理想を抱いたり、信仰を見いだしたりするとき、ぼくらはとても当たり前にその円のありようを理解し、受け容れることになるのではないか

 

  ここでふれられている『人を愛し・憐れみ・理想を抱く』とは、思春期に誰もが直面するさまざまな困難を乗り越えた先で手にすることが出来る成熟ではないでしょうか。今を生きる若者たちへの励ましの気持ちが込められているように感じられます。

 

【まとめ】

  この作品は、神戸を舞台にしたおしゃれなリサイタルの話に始まり、さりげなくキリスト教の宣教イメージをはさんで、神学的な箴言が関西弁に置き換えられて登場します。和から洋へ、さらに神学論・人生訓へと、段階的に読者を引き込んでいく巧みな構成になっています。きっと神戸出身の作者の個人的な原風景も織り込まれていることでしょう。村上春樹ファンとしては見逃せないとても興味深い作品でした。