初めてのブログの投稿となります。皆さん宜しくお願いします_(._.)_
【要旨】
まずはじめに作品の要旨を”超訳”でご紹介します。 村上作品は多様な読み方が出来るので、ボクの”超訳”はあくまでも数ある読み方のひとつと考えてください。
- 一度きりの夜を共にした彼女の残した短歌がいつまでも心に響く。
- 詠まれた歌の多くは、疑いの余地なく、死のイメージを追い求めていた。
- 自らの人生を削りに削って差し出した言葉が、石のまくらの上で永遠の時を刻む。
【読みどころ】
続いて作品のおいしいところを、思い入れたっぷりに語ってみたいと思います。
「ねえ、いっちゃうときに、ひょっとしてほかの男の人の名前を呼んじゃうかもしれないけど、それはかまわない?」
アルバイト先で知り合った彼女が求めていたものは、「僕」に対する精神的な愛情というよりも肉体的な温もり。それをバタイユ的に《死の超克》と読み替えると、彼女は「生きたい!」という切実な生存欲求を抱えていた、と言えそうです。彼女が噛みしめていたタオルの生々しい歯形の跡がそれを物語っています。
あるいはもう彼女は生きていないかもしれない。そう考えることがある。彼女はどこかの地点で自らの命を絶ってしまったのではないかという気がしてならないのだ。
「僕」がそんな風に思ったのは、彼女が残していった短歌の大半が、死への憧憬を含んでいたから。彼女の短歌をつないでいくと「名も無き斧が 石のまくらに置かれた首を 斬り落とす」という死のイメージが浮かび上がって来ます。
・・・一夜の思い出と後に残された短歌を行き来しながら描かれる「生の欲求」と「死の憧憬」・・・
本作は、生と死の二つの相反する要素が人の心にいつまでも残る言葉を作り出すという《創作》そのものの神秘を描いているように思えます。 そんな《創作》について語った次の文章を、物語のいちばんの読みどころとしてご紹介します。
しかしそのような辛抱強い言葉たちをこしらえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときとして自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはならない。そう、僕ら自身の首を、冬の月光が照らし出す冷ややかな石のまくらに載せなくてはならないのだ。
こんな風に、やさしい言葉と比喩を使って含蓄に富んだ文章が書ける作家は、村上春樹をおいてほかにいないのでは? とボクは思っています。
【まとめ】
短編集『一人称単数』にはアマチュアリズムのモチーフが随所に登場します。それはボクの気持ちを奮い立たせた挙句、衝動的にこのブログを立ち上げてしまいました。今回取り上げた『石のまくらに』はいちばんのお気に入り作品です。これがブログの始まりであったことを、いつか遠い先で振り返る日が来るのを夢見ています。
レビューを読んでくださった皆さんにも、本書が良き読書体験となりますように!!