臆すことなく
本書は言わずと知れた村上春樹のデビュー作です。若干29歳の新人作家である彼は、自身の創作のルーツとして架空のSF作家を臆すことなく引用し、翻訳調の文体にポップカルチャーを散りばめた新しいスタイルで、既存の文学に対するあからさまなアンチテーゼを打ち出しました。「こんなものは文学ではない」という当時の識者たちの指摘は至極ごもっとも。でも、時代が求めたのは《既存の文学》ではなく《新しい風の歌》でした。
《あらすじ》
何かを書こうとするといつも絶望的な気分に襲われる。そうして僕はじっと口を閉ざして何も語らず、20代最後の年を迎えた。一夏中かけて僕と鼠が25メートル・プール一杯分のビールを飲み干した1970年の夏。今、僕はそれを語ろうと思う。
『僕から鼠へ』
「でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。故障した飛行機に乗り合わせたみたいにさ。もちろん運の強いのもいりゃ運の悪いのもいる。タフなのもいりゃ弱いのもいる、金持ちもいりゃ貧乏人もいる。だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。」
大学をドロップアウトし、親とも彼女との関係も上手くいかない「鼠」に、「僕」が投げかけた言葉です。この言葉は少々回りくどい表現ですが、作者はその後の作品を通じてこのメッセージを形にしていきます。
『小指のない女の子へ』
「それでね、何か嫌なことがある度にその草の塊りを眺めてこんな風に考えることにしてるんだ。何故牛はこんなまずそうで惨めなものを何度も大事そうに反芻して食べるんだろうってね。」彼女は少し笑って唇をすぼめ、しばらく僕の顔を見つめた。「わかったわ。何も言わない。」
父親の病や家族離散、妊娠中絶など、辛い経験を重ねてきた彼女に対して「僕」がかけた言葉です。これが彼女にとって慰めとなったのかどうか。「僕」はその後、二度と彼女と会うことはなかったので、それを確かめる手段はありません。
『リスナーへ』
「でもね、いいかい、君に同情して泣いたわけじゃないんだ。僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。
僕は・君たちが・好きだ。
あと10年も経って、この番組や僕のかけたレコードや、そして僕のことをまだ覚えていてくれたら、僕のいま言ったことも思い出してくれ。」
「犬の漫才師」と自称するDJが、病気で3年間寝たきりの生活を送っているリスナーに呼びかけた言葉です。回りくどいセリフばかりの本書の中で、DJの口を借りてようやく素直な言葉が語られたと捉えることもできそうです。
【ポストモダン文学】
1980年代に《ポストモダン文学》と呼ばれる一群の作品たちが登場しました。例えば、ポップカルチャーと融合や詩的な表現で物語を解体したり、模倣やパロディを駆使して従来の文学の枠組みを打ち壊すことを目指した新しい文学です。
本書は、1970年の夏の出来事を、1979年時点で29歳になった「僕」が回想するという構成です。ポストモダン的な手法により、「鼠」や小指の無い女の子の物語は分解され、不規則にアフォリズム(格言)が挿入されてます。学生運動の情熱が挫折し、冷たい現実に直面することを余儀なくされた70年代の若者たちへの想いが、散発的に作品全体に散りばめられています。
既存の文学への対立軸を作ることだけで成立したかのような、なんとも初々しい作品です。今回改めて読み返すと、まだ未熟で先の見えなかった頃の自分を思い出し、懐かしいような、気恥ずかしいような、何とも言えない気分が蘇ってきます(*^^*)