カーヴァーが描く物語は表立って物事が展開しないために、作品の意図をつかむのが難しいとされています。村上春樹はこのような謎めいた雰囲気の中に「凛とした空気漂う世界観がある」として、それを《カーヴァー・タウン》と名付けました。
次に紹介するのは、『ねじまき鳥クロニクル』の導入部にオマージュされたことで知られる作品です。ここにも《カーヴァー・タウン》の深部に読者を誘う秘密の入り口があるようなのですが・・・。
《あらすじ》
電話のベルが鳴り、男は急ぎ足で受話器を取った。女が電話口で「どちら様ですか?」といきなり尋ねる。女は仕事から戻り彼の自宅の番号が書きつけてあるメモを見つけてかけたのだという。女はクララ・ホルトといい、男も名を名乗った。女は続ける「どこかでお会いできないかしら、アーノルド?」「あなたにすがっているのよ」
【あなたにすがっているのよ】
あなたにすがっているのよ、か、と彼は受話器を手にしたまま復唱した。ゆっくりと手袋をとり、それからコートを脱いだ。うかつなことはできんぞ、と彼は思った。それから顔と手を洗いにいった。バスルームの鏡を見て、自分がまだ帽子をかぶったままでいたことに初めて気づいた。女に会いにいこうと決心したのはそのときだった。
女の言葉には妄想と真実が入り混じっている。男の理性はそれに応じる気持ちを押しとどめようとするが、抑えきれない欲望と好奇心が彼女のもとへと向かわせる。更なる謎と混乱が待ち構えていることも知らずに。
【奇妙な世界】
この短い作品のなかには、様々な文学的仕掛けが施されているらしいのですが、今の私には主人公の男と同じようにただ『奇妙だ』と呟くほかありません。それでも、不思議なメタファーに引き込まれて、日常を逸脱した何かにどっぷりとはまってしまいました。
私たちの現実のすぐ隣にあって、どんなことも起こり得る世界《カーヴァー・タウン》。残りの作品を味わいながら、さらに不思議な世界へ踏み込んでみたいと思います。