村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【水の底で】(『犬の人生』より)

 私の妻は時々寝ているときに見た夢の話を聞かせてくれます。それは当人にとってはリアルで印象深いものらしいのですが。脈絡がなくオチもない話なので、私はいつも閉口しています(-_-;)

 

 さて、今回ご紹介する作品は詩人が語る夢の中の話です。案の定、脈絡もオチもなく、同じような情景が三度繰り返されて夢から覚めるというただそれだけの話。しかし、読み終えた時の不思議な感じをどのように言葉にすればよいのか、またもや私は途方に暮れています。

 

《あらすじ》
葉杖をついた気味の悪いこびとの少女。寝室で見た父と母の裸の姿。妻が口にした棘ある言葉。果てしなく続く暗闇の高速道路。心臓発作で死んだ母と「私はもう死ぬよ」という父。・・・これらのモチーフが時と場所と人物を交互に入れ替えて、繰り返し、繰り返し、繰り返し夢のなかに登場する。

 

『冷たい湖の底に潜水する』

私は冷たい湖の底に潜水する。陽光の梁を抜けて、水底の暗い段丘へと沈んでいく。私が目を閉じると、だしぬけに朝だ。ジョリーモアにある叔母の家の台所、その棚の上でバタースコッチ・プディングが冷えていく匂いがする。

 

り返される三度目の夢の終わりに『私はもう戻りません』と明言した。すると「私」は眠りから起き上がり、水面に浮上し、百万もの小さな燃える蝋燭のきらめきの中で覚醒した。

 

【人生の走馬灯】

 夢を見る仕組みは、脳に仕舞われた過去の記憶が結びついて物語化されたものだと言われています。各々の記憶はその時々の精神状態やストレスの影響を受けるものの、ほとんどの場合はランダムに結びつきがなされています。

 

 例えば、情動に関わる脳の扁桃体の部分の興奮が夢を引き起こすと言われています。喜びなどのポジティブな刺激にも反応しますが、圧倒的に多いのはやはり不安や恐怖などのネガティブな刺激のようです。

 

 本作では繰り返す夢の中で、人生の断片が走馬灯のように再現されます。そこには心温まるモチーフも見受けられますが、案の定、ネガティブな記憶が大半を占めています。そして「私」が最後に夢から覚醒した場所は生の記憶から切り離された死後の世界、あるいはキリスト教の教義に出てくる「リンボ」と呼ばれる冥界でしょうか。

 

 いずれにしても、この物語は私たちが現実の中に見ているものが、心にどのように届いているかを端的に描いています。誤解を恐れずに作品のイメージを言葉にするとこうなります。

 

  人は誰しも嫌いな人と出会い、欲望に振り回され、望み叶わず、親兄弟と死別する

 

 マーク・ストランドの文章には安易なごまかしなど存在しませんが、とりわけ本作は心の奥底を包み隠さず描いています。赤裸々な表現に驚かされもしますが、不思議にすがすがしい気持ちになりました。

 

【大統領の辞任】(『犬の人生』より)

 今回ご紹介するマーク・ストランドの作品は、かつてドリフのコントでお馴染みだった《もしもシリーズ》を彷彿とさせます。題して「もしも大統領が気象マニアだったら」。いかりや長介が最後に「だめだこりゃ」と言い出しそうな突拍子もない作品です。

 

《あらすじ》
統領が辞任を発表した。彼は決して人気のある指導者ではなかった。彼が在任中に行ったのは気象に関する分析と予想、国立気象博物館の建設とフロンガスとの戦いだったから。要するに彼の正体は単なる気象マニアだった。そして、前代未聞の辞任演説が始まる。

 

『気象の恵みは変わることなく』

 私はこれまで一度として空を見上げるのをやめたことはありませんし、これから先も変わることなくそれを続けるでしょう。失望の、そして喜びの深い藍色と群青色を、それ以外のどこの場所に求めることができましょうか。気象の恵みは、変わることなく私たちの職務の域を凌駕し、私たちの口にする言葉を、前触れもなしに、尽きることのなき巨大な薔薇の花弁へと変えてしまうことでしょう。

 

51日間の在任中、彼は閣僚たちと日々チェーホフを朗読し、自分たちの役割の非重要性に苦悶し、人生の儚さに溜息をついた。演説は次第にエスカレートしていき、気象にまつわる抽象的で壮大で、意味不明な信仰告白となっていく。

 

【事実は小説よりも奇なり?】

 気候変動対策が世界共通のアジェンダにまで格上げされ、また、ポピュリズムにより常軌を逸脱した国のリーダーが当たり前のように登場する昨今では、この作品が当初意図していた『気象マニアの大統領』という奇妙な存在のインパクトは薄れてしまったかに見えます。

 

 しかし、そもそも以前までの私はこの作品を正しく読み解いていたのでしょうか?何か大事なことを見落としてはいないでしょうか?今回改めて読み返してみて、次のようなことに気付きました。

 

 例えば、文中に登場する『気象』の部分を『詩』という言葉に置き換えると、この作品の別の姿が浮かび上がってきます。この作品の意味を問うことは野暮なことだと承知していますが、過去の自分への回答として記しておきます。

 

  世の中は地上において刻々と変化すれど、芸術は天上で輝き続け、望めば人は誰しもその恵みに浴することができる。

 

 合衆国桂冠詩人の称号を受けて、その任期中に公的な詩作や詩文化普及に務めてきたマーク・ストランドは、アメリカ国民一人ひとりが詩の世界に触れ、その恩恵を享受することを本気で望んだのでしょう。それはおそらくドン・キホーテのような勝ち目のない挑戦であったに違いありません。

 

 『大統領のさよなら演説』と称するメッセージ文は、一見するとエキセントリックなパロディで偽装されています。しかし私には、作者の願いを極めて誠実にストレートに告白したものに思えてなりません。

 

【小さな赤ん坊】(『犬の人生』より)

 今回ご紹介する作品には小さな赤ん坊とその母親が登場します。しかしそこには毎度のことながら一筋縄ではいかない事情がうかがえます。私なりに作家の伝えようとするイメージを探ってみたいと思います。

 

《あらすじ》
親はベビー・シッターに小さな赤ん坊の面倒を見るよう言いつけ、出かけたふりをして窓の外の茂みから様子をうかがった。赤ん坊は飛び抜けて小さかったので母親は怯えた。居間が巨大なモニュメントがそびえ立つ平原のように見えて怖くはないかと。そこで彼女は赤ん坊に猫のぬいぐるみを着せた。そうして芝生の上で跳ねたり転げたりするのを眺めるうちに彼女はまた心配になってきた。庭が小さな赤ん坊にとってあまりにも危険なことに。

 

『小さな赤ん坊の母親は・・・』

 彼女は刃物のような草の葉を恐れた。茂みの棘を恐れた。天候の荒々しい接近を恐れた。近所の雄猫たちのーーー騒がしくて、慎みを知らず、粗暴で気まぐれなーーー接近についてはいうまでもない。小さな赤ん坊の母親は、それを思うと身が震えた。猫の衣装を脱がせてしまおうかとも思ったが、迷っているうちに赤ん坊はネズミを一匹殺してしまった。

 

親は赤ん坊を凧の尻尾に結び付けて空へと放つ。紛失してしまわないようにバッグの中にしまっておく。そうして彼女は夢想する。赤ん坊がハリウッドのスターになることを!上流階級のトップに昇り詰めることを!さらには神聖なる鏡の魔力で不死性を手にすることを!?

 

【子供の誕生】

 歴史学者フィリップ・アリエスの著書『子供の誕生』によれば、ヨーロッパでは中世に至るまで《子供》という概念は存在しなかったといいます。年少者は生まれただけでは家族の一員とみなされず、ある程度の成長を遂げると徒弟や奉公など労働に勤しむ《小さな大人》とみなされました。家族が共同体の一部という性格を強く持っていたために、親子関係を醸成する環境になかったのもその要因の一つと考えられています。

 

 これが近世になると仕事と社交、私生活の分離が進み、ひとつの家庭の中で近親者のみが生活を共にするようになります。共同体よりも家族という単位が優先され、その中で年少者が占める位置が高まりを見せ始めるようになります。こうして《子供》という概念が誕生しました。

 

 本作に登場するのは「小さな赤ん坊」でも「母親」でもなく、ままごと遊びをしている《子供》です。幼いながらも母性豊かな彼女にとって喜びも悲しみも洪水のように押し寄せてきます。その一方で死は遥かかなたに追いやられています。それらは、私たちが幼い頃に目にした景色がどれほど神秘的で驚きに満ちていたかを思い起こさせてくれます。本書が伝えようとしているイメージはこんな感じではないでしょうか。

 

  人は誰しも純真無垢でかけがえのない子供時代を生きる権利を有している

 

 長い時を経て私たちが獲得した人生の豊かさを次の世代、そのまた次の世代へと残していきたいものだと思いました。私ども夫婦は子供がいないので、それを見守るだけの役割となりますが。

 

【真実の愛】(『犬の人生』より)

 著者のマーク・ストランドは「合衆国桂冠詩人*1」の称号を受けていて、アメリカの詩を語るうえで彼の作品は欠かすことができないと言われています。詩以外にも児童文学作家、翻訳者、編者、評論家など多彩な顔を持ちます。本書はそのなかから「ザ・ニューヨーカー」等に寄稿された短篇を一冊にまとめたものです。

 

 さて、今回ご紹介する作品にはバツ5の男性が登場します。妻以外の女性たちと繰り広げるアバンチュール。前回と同様に「ちょっと変な」物語の行方をたどっていきます。

 

《あらすじ》
はこれまでに五度の結婚と六度の妻以外の女性との恋愛を重ねてきた。私の愛は常に《真実の愛》であるが故に、前代未聞の苦悩と輝かしい喜びを呼び起こした。一度目はマチュピチュに行った時のこと。「神聖広場」で探検家の洋装に身を固めた魅力的な女性に出会った私は、彼女に誘われるままにワイナピチュまでの険しい山登りに同行した。

 

『私は恋に落ちた』

光景はどんどん壮大なものになっていたが、私の視線は前を行く女の完璧なかたちをしたお尻と、脚の上に釘付けになっていた。ぶかぶかの半ズボンと巻ゲートルにかたちを歪められていたにもかかわらず、その脚はすらりと長かった。私は恋に落ちた。

 

日後、期待に胸を膨らませながら、彼女が泊まっているリマのペンションを訪れた。しかし、別の男に寄り添って歩く彼女を見かけた私は、黙ってその地を立ち去る。その後も、ニューヨークの地下鉄で、オーストラリアのパーティーで、ベオグラードの列車旅の途中で、時と場所を選ばず運命的な出会いを重ね、繰り返し、繰り返し、私は恋に落ちた。

 

【自由恋愛主義?】

 《自由恋愛主義》の起源は「女性の意思に反する結婚」や「宗教や親同士の策略結婚」に対する異議申し立てに始まると言われています。結婚は戦争を支える資本主義文化の象徴だと警告するヒッピー・ムーブメントもありました。昨今では、フェミニズムLGBT意識の高まりとともに「もっと自由に楽しく生きたい」という心理がこのような考えを支持しているようです。

 

 いずれにせよ、成人した大人同士の自由恋愛は正当なものであり、感情的であろうが性的であろうが、何の制約もなく尊重されるべきだという主張には説得力があります。果たして、妻以外の女性とのアバンチュールを夢見るこの男性の《真実の愛》とは、このような《自由恋愛主義》から生じたものなのでしょうか?

 

 改めて本作を振り返ると、みじめな破局を繰り返す主人公の単純な行動は、自由恋愛とはほど遠いものです。女性にフラれた末に膨らませる妄想は無益で、不倫と呼べる代物ですらありません。そもそも彼は結婚制度に揺るぎない信頼をおいていて、五度の離婚にも屈することなく次のお相手を探しているお気楽ぶりです。

 

 恋愛から醒めた場所にいる読者は、きっと嫌悪と侮蔑の思いを持ちながら語り手の恋物語を読み進めることでしょう。私も最初はそうでした。しかしそのなかに、心の琴線に触れる一節に出会ったとしたら、自分自身の偽り無い姿をそこに投影しているのだと正直に認めませんか。私は最終的に次のような結論に至りました。

 

  人は誰しも日々の情緒の糧を《真実の愛》なるものに求めて生きている

 

 それは《何々主義》などといった理屈を必要としない絶対的なものであり、孤独や不安を越えて人を狂気に引き込む甘美な誘惑です。これぞ《真実の愛》を言い表した名調子の言葉を思い出したので最後に引用しておきます。

 

「あー、いい女だな、と思う。その次には話をしたいなあ、と思う。ね。その次にはもうちょっと長くそばにいたいなあ、と思う。そのうち、こう、なんか気分がやわらかーくなってさ、あーもうこの人を幸せにしたいなあ、って思う。この人のためだったら命なんていらない、もう死んじゃってもいい、そう思う。それが愛ってもんじゃないかい?」(『男はつらいよ葛飾立志篇』より)

*1:詩人としての資質と活躍が評価されて国家から選ばれるもので、公的な詩作や詩文化普及などの任務が課せられる。

【更なる人生を】(『犬の人生』より)

 今回からアメリカ現代詩界を代表する詩人のマーク・ストランドの短編集『犬の人生』をご紹介していきます。翻訳はもちろん村上春樹

 

 彼の作品は俗に《オフビート*1》ととも呼ばれ、常識から外れた突飛なものが多いのですが、村上作品を理解するうえで欠かせない要素を含んでいるので思い切って取り上げてみました。詩的な情感がちりばめられた14作品。詩人の手による想像力に満ちた短篇小説の魅力をお伝えしたいと思います。

 

《あらすじ》
事にうんざりしていた僕は、勤めていた証券会社を辞め、友だちのサマーハウスでひと夏を過ごしていた。午後の散歩の途中、一匹の蠅が僕のまわりをくるりとまわると目の前に浮かでとまった。僕はそのとき突然こう思った。死んだ父さんが蠅になって戻ってきたんだ!

 

『父さん、行かないで』

「父さん!」と僕は言った、「いいから、僕にとまりなよ」。ぶんぶんという羽音は異様なほど高まった。それは狂おしいばかりの不同意を示していた。なんとか父さんと会話をすることができたらなと思ったことを記憶している。彼は飛び去ってしまった。「父さん、行かないで」と僕は大きな声で叫んだ。「帰ってきて」。

 

生の進展(おそらく詩人として独立)に伴い、仕事から、女たちから、都会生活から逃れて自己実現を果たしてきた「僕」に亡き父親の幻影が訪れる。それを喜々として受け入れ『父さん、戻ってきたんだね!』と語りかけるが、そのたびにはねつけられてしまう。なぜなら「僕」が父と思って語り掛けるその相手とは、野原を飛び回る蠅であり、セントラル・パークの馬であり、出会って間もない恋人のヘレンなのだから。

 

【父の思い出など】

 このブログを書いている私の父は、仕出し割烹屋の5人兄弟の三男坊で、幼い時に親元を離れて疎開暮らしを経験しました。生魚が苦手なこともあって、家業には加わらずに他業種の丁稚奉公を経て独立し、母と二人で小売業を営んで私を育ててくれました。

 

 私自身は大学を出てゼネコンに就職して以来、受注をめぐる他社との争奪を生業にしながら過ごして来ました。地域経済の裏や表も見てきましたし、窮地に立たされながら首の皮一枚つながって救われた苦い経験もあります。

 

 ちなみに私の父はまだ健在です。商売を閉じてのんびりとした年金暮らしをしながらも、生来の偏屈さを残していて、顔を合わせるたびに私はなにかと反発を感じます。父には父の人生があり、私にも私の人生があり、両者はこの先も遠ざかりこそすれ距離を縮めることは無いとずっと思ってきました。

 

 本作の語り手は、世に認められないまま死んだ父とは真逆の華やかな生活を送っているのですが、父のことを思い出すたびに、そんな自分の生き方に対して自己嫌悪に陥ります。初めてこれを読んだ時私は、何か冗談のようなものでも言っているのかと勘繰りました。しかし、繰り返し読むうちに、語り手の言葉が誠実なものであることを徐々に確信するようになりました。

 

   人は誰しも心の底から父親を敬い、憐れみ、そして赦しを請う

 

 親子の間に生じるこのような複雑な感情について、この物語は理屈抜きに湧き上がる根源的な意識として描いています。いま改めて振り返れば、実はそれが私の中にもある父に対する本当の想いであることを認めざるを得ません。

 

 マーク・ストランドの作品はどれをとっても「ちょっと変な」ものばかりです。しかし、そこから思いもよらない「ちょっと変な」何かを自分の中に見出してしまうことにも。こんな調子で残りの13作をご紹介していきます。どうぞよろしくお願いします。

 

*1:ジャズなどの演奏において通常とはずれたところに強迫があること。それを転じて常識から外れた人物を描いた作品をさす。

【めくらやなぎと、眠る女】(『レキシントンの幽霊』より)

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 本作は以前ご紹介した『めくらやなぎと眠る女』を、阪神・淡路大震災の被災地でのチャリティー朗読会向けに書き直しされた作品。「、」がついているのが目印です(笑)

 

 改訂前と後で何が違うのか? なぜこの作品が朗読会に採用されたのか? 短編集『レキシントンの幽霊』のラストに収録された意味は何なのか? 等々、作品をご紹介しながら考察してみたいと思います。

 

《あらすじ》
京での仕事を辞めて一時的に故郷に戻っていた僕は、従兄弟の耳の治療に付き添うことになった。診察が終わるのを待っているあいだ、僕は親友のガールフレンドのお見舞に行った時のことを思い出していた。あの夏の日に、僕らの不注意と傲慢さによって損なわれたもののことを。

 

『見る影もなく溶けたチョコレート』

 僕はそのとき、あの夏の午後にお見舞いに持っていったチョコレートの箱のことを考えていた。彼女が嬉しそうに箱のふたを開けたとき、その一ダースの小さなチョコレートは見る影もなく溶けて、しきりの紙や箱のふたにべっとりとくっついてしまっていた。

 

 僕らはそのことについて何かを感じなくてはならなかったはずだ。誰でもいい、誰かが少しでも意味のあることを言わなくてはならなかったはずだ。でもその午後、僕らは何を感じることもなく、つまらない冗談を言い合ってそのまま別れただけだった。そしてあの丘を、めくらやなぎのはびこるままに置きざりにしてしまったのだ。

 

友とその彼女がその後どうなったかは『ノルウェイの森』に詳しく書かれているのでここでは触れません。今回の改訂で付け加えられたのは、《溶けてしまったチョコレート》に象徴される何かを僕らは感じなくてはならないという、二段目の引用部分です。

 

【故郷からの再出発】

 改訂前の作品は1983年の「文學界12月号」に掲載されました。当時の村上春樹はまだ長編小説『羊をめぐる冒険』を一つを書き上げただけの駆け出しの新人作家でした。

 

 その後『ノルウェイの森』の爆発的ヒットや、米雑誌「ザ・ニューヨーカー」に日本人初のデビューを飾るなどの目覚ましい活躍をするも、ヨーロッパやアメリカに拠点を置いて、日本社会とは一定の距離を取り続けてきました。

 

 しかし、アメリカで震災のニュースに接した彼は、復興に協力したいという思いから、被災地であり故郷でもある神戸と芦屋のチャリティー朗読会に参加します。そのために帰国し、故郷を舞台にした本作を選んでほぼ十年ぶりに手を加えました。

 

 『何かを感じなくてはならなかった』『少しでも意味のあることを言わなくてはならなかった』という言葉は、震災の復興に対する作家の思いが感じられます。また《傷ついた魂の救済》《故郷からの再出発》という新たなテーマが、難聴を抱えた少年と同じ目線に立って語られるのですが、それは被災者と共に歩もうとする意志が感じらます。

 

 これで短編集『レキシントンの幽霊』のご紹介は全て終了しました。村上春樹は日本に帰ってきてからも精力的に話題作を発表し続けます。そのたびにアンチ・ハルキストが現れたり、ノーベル文学賞をめぐる狂騒が起きたりと、この作家の周辺はいつも何かと話題が尽きないのですが、それについてはまた別の機会に。

 

【七番目の男】(『レキシントンの幽霊』より)

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 今回ご紹介するのは阪神淡路震災と地下鉄サリン事件を経て、村上春樹が最初に発表した作品です。ここには心に傷を負って苦しむ被災者や被害者及びそれを見守る人々に向けたメッセージが込められているように感じました。

 

《あらすじ》
の強い夜に人々が集まっている。丸く輪になって座った彼らは奇妙な話、不思議な話、恐い話を持ち寄っているらしい。その最後となる七番目の男の話。海辺の町に生まれた彼にはKという仲の良い友人がいた。ある台風の日に、束の間の静けさのなか二人は海岸へ出た。その時、見たこともない巨大な波が突然現れて、目の前でKをさらっていった。

 

『波の中に引きずり込んでいく』

 「眠りにつくと私の夢の中に、まるで待ちかねたようにその顔や手が現われ出てきました。夢の中では、波がしらのカプセルの中からKがひょういと飛び出してきて、そこにいる私の手首をきつく掴み、そのまま波の中に引きずりこんでいくのです。」

 

を助けることもできたという自責の念が、男の心に耐えがたい苦痛を根付かせた。それ以来故郷に戻らず、海にも川にも湖にも一切近寄らず、40年ものあいだ骨の髄まで染みついた恐怖とともに彼は生きてきた。

 

【良き聞き手となるために】

 災害や事故、犯罪、虐待などによる強い精神的衝撃が原因で、生活に支障をきたすほどの激しい苦痛をもたらすという「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」。この病名は、阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件をきっかけに広く知られるようになりました。

 

 このような精神疾患に対して、精神療法の一種でもあるナラティブセラピー(物語療法)が用いられることがあります。それは話し手の中にある記憶を自由に語らせることによって、PTSD症状の除去から人生観の転換に至るまで幅広い改善効果があると言われます。

 

 例えば、セラピーの場で語られる物語には「正しい物語」も「間違った物語」もなく、それに対する「客観的な解釈」も存在しません。それは各人のものの見方の問題です。セラピーの目標は問題を解決するよりも、新しい視点による新しい意味の発生により、問題を問題でなくしてしまうということに主眼が置かれています。

 

 七番目の男は自己の罪悪感を亡くなったKに投影して、恐ろしい幻想を自ら創り出してしまいました。しかし、ある小さな出来事をきっかけに、男の中のKのイメージは劇的に変容します。あるいは、40年という「時の薬」がその結末に導いたようにも感じられます。いずれにしろ、車座のなかで語られる様子は、ナラティブセラピーそのものに感じられます。

 

 本書を読みながらぼんやりと1995年の出来事を思い浮かべました。阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件では、実際に多くの人々が未曾有の精神的衝撃に遭遇し、その後も長く後遺症に苦しんだと報告されています。七番目の男が語る心象風景は、現実問題として当時の多くの人々の心に生じていたに違いありません。

 

 あの時、同じ日本人として私もその輪のなかに連座していたはずでした。しかし、その頃の私はもの知らぬ若造であったために、あまり良い聞き手ではありませんでした。心に傷を負った人々に対して、良い聞き手となるにはどうしたらよいのでしょうか。この先も考え続けることになりそうです。