村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【ムーア人】(『バースディ・ストーリーズ』より)

 村上春樹翻訳ライブラリーの『バースディ・ストーリーズ』から短編作品をご紹介します。本書は《誕生日》をキーワードに選定された英米文学のアンソロジーです。この多種多様な取り合わせを、村上春樹がどのような意図で構成したか最終的に考察しますのでお楽しみに。

 

 最初の著者ラッセル・バンクスは、編集者の経歴を経てプリンストン大学の教壇にも立つ作家です。現代アメリカ文学で、白人労働者階級の悲哀を書かせたら右に出るものがいないと言われる巨匠です。本作も心温まる内容に仕上がっています。

 

《あらすじ》
い頃に役者を志していた私は、現在は暖房設備の部品販売で生計を立てている。ある雪のちらほらと舞う夜に、なじみのレストランで家族と共に食事を楽しむ1人の老婦人が目に留まった。店主に聞くと、今日は彼女の80歳の誕生日だという。レストランを出ようとそばを通り過ぎようとしたとき、ふいに老婦人は私の袖口をつかみ私の名前を口にした。

 

『私はただそれを知りたいのよ』

「私はただそれを知りたいのよ、ディア。あなたはそういうことをまったく口には出さなかった。私たちはひとつの大きな秘密を共有していたけれど、自分たちのそれぞれの秘密についてはまともに語り合わなかった。私たちは芝居について語り合い、ちょっとした情事を持った。」

 

「私」は誕生日プレゼントとして彼女の望み通りの答えを差し出す。それは明らかに真実ではなかったが、彼女はにっこりと微笑んだ。次に「私」も彼女からの告白を受け取る。おそらくその言葉も真実ではない。それでも二人は親密な気持ちに包まれた。

 

【「甘え」の構造】

 本作を読んで、私は土居健郎の『「甘え」の構造』を思い出しました。それは1971年に出版されてベストセラーとなり、西欧の精神医学にも影響を与えたと言われる我が国を代表する啓蒙書です。

 

 土居は義理人情を基盤とした日本人の心象や社会構造を分析しました。そして、人間関係を構築するうえで、親子のような親密さを求める《甘え》について、日本人特異性のひとつとして肯定的に捉えています。ちなみに《甘え》という言葉は日本語以外に該当する概念がないため、外国語に訳される時は《amae》とそのまま表記されます。

 

 本作は、男性と老婦人が過去の禁断の情事を回想する話です。良識や倫理は一時的に猶予され、二人だけの心通い合う世界が出現します。虚実を交えながら互いを気遣う関係を愛と呼ぶのは相応しくないかもしれませんが、深い情緒の特別な繋がりが感じられます。

 

 本作は、《甘え》の概念を持たないはずのアメリカ文学に登場したもうひとつの《甘えの構造》という風に私は解釈してみました。ただ、ここに描かれた男女の景色には、私たち日本人の義理人情を超えたエレガントさが漂いますが🌹

 

 こんな調子で残りの12作品をご紹介していきます。どうぞ宜しく(^^)/

 

【①必要な物】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 グレイス・ペイリーという人をご存知ですか?彼女はアメリカの小説家、詩人、大学教授、フェミニスト社会主義政治活動家です。両親はウクライナから亡命してきたユダヤ人で、家庭内ではロシア語とイディッシュ語*1を話し、高校を中退して19歳で結婚するも二人の子供を抱えて離婚。子育てと政治活動が忙しいために、小説家として出版したのは短篇小説集をわずかに3冊だけでした。

 

 そんな自他ともに認めるアウトサイダーの彼女が、なぜアメリカ文学を代表するカリスマ女流作家と呼ばれるようになったのか。村上春樹訳による本書に収められた17の短篇をご紹介するなかで、その謎に迫ってみたいと思います。

 

 ただし、アクの強い偏向的な見解が頻発するので、おそらくブログが迷走するのは必至です。従って、他の公序良俗に沿った明快な作品を間にはさみながら、小出しに掲載していくという方式を採ります。また、通し読みを望まれる方にはタイトルに番号を付しておきますのでご利用ください。

 

 前置きが長くなりましたが、さっそく最初の作品をご紹介します。

《あらすじ》
書館の前で別れた前の夫に出会った。私はそこで18年間借りっぱなしだった本の罰金を支払う。そして今返却したばかりの二冊の本を再び借りなおした。そんな私に、別れた前の夫はぽつんとひとこと意見を言って立ち去った。

 

『私が必要なもの』

 私は厳しい告発を受けたような気がした。でもまあたしかに、相手の言い分にも一理あった。私は何かが欲しいだの、何かがどうしても必要だのと口にすることはあまりない。しかし私にだって欲しいものや望むことはあるのだ。

 

り直した古い本に対する興味はもはや失われた。私には一人の相手に終生夫婦として添い遂げることなど出来はしなかったし、それを望むべきでもなかったのだ。それでもいま、未来に向けて新たな一歩を踏み出す意欲を自分の内に感じている。

 

【超ポジティブ思考】

 主人公の「私」が図書館を訪れた理由は、たまたま町の街路樹を眺めていて、公共の秩序に従った行動を取れる人間になりたいと思いついたからでした。しかし、別れた夫のひと言を受けて「私」の脳裏に浮かんだのは、この国を変革したいという壮大な野心。しかし、その野心の出どころは明らかに夫婦生活の破綻から来るコンプレックスなのですが。

 

 作家はこの先、様々な人格で登場する「私」が遭遇する幾多の障害や困難を、誰にも真似のできない発想で乗り越えていく日々を描いています。読者はいったいどこまで彼女の超ポジティブ思考について行くことが出来るか? そもそも私は本書の17作品を無事に語りきることが出来るか? 気長にお付き合い下されば幸いです。

*1:東欧のユダヤ人の間で話されていたドイツ語近い言語。ユダヤ語とも称される。

【映画:ドライブ・マイ・カー】

 『映画:ドライブ・マイ・カー』をご紹介します。この作品は皆さんご承知のとおりアカデミー賞の国際長編映画賞の受賞作です。原作はもともとオバマ元大統領の一押し作品ということもあって、アメリカ国内では一定の評価を得ていたようです。映像化に際して画期的なアイデアと独自の解釈を取り入れたことが、この度の受賞に繋がったのではないでしょうか。

 

《あらすじ》
の突然の死から二年後、家福は演劇祭の舞台演出家として招聘を受け広島を訪れる。そこで専属ドライバーにみさきを紹介され、彼女の運転で宿舎と仕事場の移動することになった。舞台のオーデションで高槻に出会った家福は、亡き妻との関係を疑いつつも彼を主役に抜擢した。家福とみさきと高槻。奇妙なトライアングルの日々が始まる。

 

『本当に他人を見たいと望むなら』

高槻「ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むなら、自分自身をまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。」

 

劇祭で上演される『ワーニャ伯父さん』の舞台裏で、演出家の家福と俳優の高槻の反転した立場の物語が進行していた。俳優としても社会人としても未熟なはずの高槻の口から、家福すら知り得ない亡き妻についての深い理解と一途な想いの告白が成される。

 

【私たちはみな演じる】

 この映画は《演じる》というテーマに独自の切り口で迫ります。例えば哲学者のカントは「演じる」ことについて次のような言葉を残しています。

 

人間はすべて、文明が進めば進むほど俳優になっていく。つまり、人間は他人に対する尊敬と好意、典雅と無私の風を装うが、それにたぶらかされる人はいない。(『人間学』より)

 

 内発的な理由なく、約束事に従ったり言ったりすることが《演じる》ということの意味なら、私たちはみな《演じる》ことに日々の大半を費やしています。カントが言うようにそれは時代が進むにつれて巧妙になり、本心を表す行為や言葉は封印され、人は人生の舞台の表と裏で二重生活を送っています。

 

 映画の中で、高槻の中からこれまでとはまったく違う人格が現われる場面に驚かされます。それは何かを演じながら生きてきた私たちの隠された心でしょうか。それとも人間的という虚飾に彩られた幻想でしょうか。この場面の岡田将生の演技は真に迫っていて輝いて見えました!その後の急展開にもこれまた驚かされますが・・・。

 

【映像化のアイデアと独自の解釈】

 濱口監督は、演劇舞台の表と裏を同時進行させることで、重層的な人格の表出を映像化していて、まるでドキュメンタリーを見ているようなリアリティが漂っています。同時にこの映画は、原作が投げかけた謎にある種の答えを提示しています。妻が生前に語ったとされる挿話は、原作の『シェエラザード』には無い深淵な解釈を加えていますし、『ワーニャ伯父さん』の劇中劇はこの物語を見事なエンディングに導いています。

 

 そもそも村上作品は、様々な推論の余地を残す未完成なところに尽きない魅力が潜んでいます。私たち読者は物語に補助線を引きながら、(やや手前勝手とも言える)独自の講釈を楽しんできました。私もいつか原作の『ドライブ・マイ・カー』をご紹介する機会が巡って来た時には、ブログに立ち寄る人をあっと驚かせるような切り口でご紹介したいと思います。やる気がもりもりと湧いてきましたぞヽ(^o^)丿

 

【蜂蜜パイ】(『神の子どもたちはみな踊る』より)

 今回は短編集に収められた最後の作品のご紹介です。ここに来て文体のリアリズムがぐんと増していることから、実は登場人物の淳平が先の五篇を創作したという意表を突いた筋書きと解釈することもできます。というわけで、本書の最後の考察をご一緒に。

 

《あらすじ》
庫県西宮出身の淳平は、両親に偽って早稲田の文学部に入学し小説家を目指した。同じ学部で出会った高槻と小夜子は卒業後に結婚し、沙羅という娘を生んだが2年前に離婚。密かに小夜子に恋心を抱いていた淳平は、結婚を申し込むことを真剣に考え始めた。そんな折に阪神淡路大震災が発生。地震のニュースを見すぎて沙羅が寝られなくなったと、小夜子は淳平に相談を持ち掛けてきた。

 

地震男』

「それは地震男なの。その男が沙羅を起こしに来て、小さな箱の中にいれようとするの。とても人が入れるような大きさの箱じゃないんだけど。それで沙羅が入りたくないというと、手を引っ張って、ぽきぽきと関節を折るみたいにして、むりに押し込めようとする。それで沙羅は悲鳴を上げて目を覚ますの」

 

平は沙羅を落ちつかせるために、その場で即席のお話を聞かせてやった。沙羅がベッドに戻って再び眠りについたのは夜中の2時前。寝ずの番をしながら、淳平は自分の中を通りすぎていった長い時間について考える。そして、一つの決意を固めた。

 

【箱ひとつ分の世界】

 オウム真理教の問題について、かつて村上春樹は次のように語っています。

「オウムの人たちは、口では『別な世界』を希求しているにもかかわらず、彼らにとっての実際の世界の成立の仕方は、奇妙に単一で平板なんです。あるところで広がりが止まってしまっている。箱ひとつ分でしか世界を見ていないところがあります」(『約束された場所で』より)

 

 ここで言う《箱ひとつ分の世界》とは、閉塞的な環境に埋没して自己の主体性を見失うことを意味します。「自己疎外感」から抜け出せなくなったり、オウムのような「独善的ドグマ」に取り込まれたりする状況を表しています。

 

 これまでご紹介した本書の作品で言えば『からっぽの箱(=疎外感)』を抱えて漂泊する小村や、『狭い冷蔵庫(=罪悪感)』に押し込まれる三宅の悪夢がそれを指します。義也は自立した精神によって『自己を拘束する箱(=ドグマ)』から抜け出そうとします。さつきは憎しみを封印して『箱(=固定観念)の外部』に繋がる日を待ち望みます。『終末思想の箱』に囚われた片桐は、心の中の悪を文学的に昇華させました。

 

 そして本作では愛する人を『地震男』から護ろうとする淳平の決意が語られます。幼い沙羅を『小さな箱』に閉じこめる『地震男』が何を意味するのか、私には読み解くことが出来ません。しかしそこには、私情のあからさまな表出を避けてきた作者にしては珍しく、震災と向き合おうとする決意が伺えます。やはり、震災の甚大な被害の中心部であった兵庫県西宮市のご両親の被災が影響しているのではないでしょうか。

 

 蛇足ですがこの作品以降、村上春樹は社会に主体的にコミットしていく姿勢を強めています。かつてはスランプの原因にもなった世間のバッシングをものともせず、社会問題や戦争責任について言及していきます。そして長い、長い、創作活動のその先で、父親である村上千秋氏との和解に至るのですが、それについてはまた別の機会に。

 

【かえるくん、東京を救う】(『神の子どもたちはみな踊る』より)


 『阪神・淡路大震災』は、東京に暮らす人々に首都圏直下型地震の到来を予見させました。ところがその直後に人々の足下を揺るがしたのは『地下鉄サリン事件』という別の惨劇でした。この二つの間に繋がりはありません。しかし、作者はこの二つの出来事にもっと深く踏み込むために、心の特別な領域に下りて行く必要があったと語っています。『かえるくん』と『みみずくん』が住む領域に・・・

 

《あらすじ》
桐さんがアパートの部屋に戻ると、かえるくんが待っていた。三日後に東京を襲う大地震を防ぐために力を貸してほしいと巨大な蛙は片桐さんに訴える。地震の原因は地下にいる「みみずくん」であり、怒りを爆発させて地震を起こそうとしている。かえるくんは片桐さんと共に地下に降り、みみずくんを相手に闘うことで地震を阻止しようというのだ。

 

『あなたにしか東京は救えない』

「ひどい人生です。ただ寝て起きて飯を食って糞をしているだけです。何のために生きているのか、その理由もよくわからない。そんな人間がどうして東京を救わなくてはならないのでしょう?」「片桐さん」とかえるくんは神妙な声で言った。「あなたのような人にしか東京は救えないのです。」

 

桐氏は風采があがらず、弁も立たないために、普段はまわりから軽く見られていた。『かえるくん』はそんな彼に、東京に終末的危機が訪れること、そこに正と邪の戦いが存在すること、片桐氏のような虐げられた人こそが東京を救うことを力説する。それはまるでハルマゲドンを予言する黙示録にも似た荒唐無稽なシナリオだった。

 

ヨハネの黙示録

 『ヨハネの黙示録』は新約聖書の最後の一書です。そこには、この世の終末と最後の審判、キリストの再臨と神の国の到来、そして信仰者の勝利など、預言的内容が象徴的な表現で描かれています。95年頃にローマの迫害下にあるキリスト教徒に向けて書かれた激励の書と言われています。

 

 しかし、作家のD・H・ロレンスの解釈によれば、『ヨハネの黙示録』は抑圧が生んだ歪んだ自尊と復讐の書です。人には純粋な愛を求めるほかに、つねに支配し支配される欲望を隠し持つ側面があります。『黙示録』は愛を説くべき新約聖書に忍びこんで、そうした根源的な欲望に応えたのだと読み解かれます。・・・なるほどその解釈には一理あるのかもしれないと思われます。

 

 東京の壊滅を信じた片桐氏の心にも、歪んだ自尊と復讐心が微塵もなかったと言えるでしょうか? おぞましい姿に変り果てていく『かえるくん』の描写は、まるで片桐氏の心の奥底に潜む憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬が噴き出したかのようです。誰の心にも多面性が潜んでいて、何かの拍子にその蓋を開けられてしまうと本人さえ驚くような反動的感情が出現します。本作にはそんな心の暗部をえぐり出す寓意が感じられます。

 

【現代の黙示録】

 『地下鉄サリン事件』はそのような終末思想が先鋭化したものです。私は見たくもない自分の邪悪さをそこに見て嫌悪感を覚えつつも、歪んだ自尊心と満たされない復讐心に苛立った挙句、湧き起こる心の反動をやがて訪れる首都圏直下型大地震によって埋め合わせたい、というドロドロとした欲望をメラメラと燃え上がらせ、・・・・・・いやいやいや、これは我ながら聞くに堪えない妄想だ( ゚Д゚) まかり間違ってもこんなことを人前で口にすべきではないので、てっ、てっ、撤回させてください!

 

 ・・・さて気を取り直して♡ この物語は片桐氏の夢の中で『かえるくん』と『みみずくん』がケンカしたお話です。本書に書かれた通り『かえるくん』とは『暗喩とか引用とか脱構築とかサンプリングとか、そういうややこしいもの』ではなくただの蛙です。それは理由もなく夢の中に現れ、元の混濁のなかに戻っていきました。おしまい。

 

【タイランド】(『神の子どもたちはみな踊る』より)

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 本作にはリゾート地としてのタイランドの魅力が伝わってきます。道路の真ん中を象が歩くというエキゾチックな街並みを想像しながらお付き合いください(^^)/

 

《あらすじ》
状腺の専門研究員のさつきは、タイの学会を終えたあとも滞在を続けた。彼女は更年期障害のホットフラッシュに加えて、過去に起きた悲劇的な出来事を心に引きずっている。心身ともにリフレッシュして日本に戻る最後の日、ある貧しい村に住む呪い師を紹介された。そこで彼女は、身体の中に白くて堅い石があることを告げられる。

 

『その石を捨てなくてはなりません』

「石には字が書いてあるのですが、日本語なので、彼女には読むことができません。黒い墨で小さく何かの字が書いてあります。それは古いものなので、あなたはきっと長年にわたってそれを抱えて生きてきたのでしょう。あなたはその石をどこかに捨てなくてはなりません。」

 

つきは、過去三十年間に渡って一人の男を憎み続けてきた。それは彼女の心身を蝕んでいる。民間信仰のやや怪しげな宣託によって、憎しみから癒しへと、心の針を引き戻す転機を手に入れた。しかし、それを成就させるには『言葉による判断を停止しなければならない』という助言が添えられる。

 

【判断保留(エポケー)】

 哲学者のフッサールは閉塞した認識を乗り越えるために「現実に対するあらゆる判断を留保すること(エポケー)」を指南しています。そうすることで「この世界にはもはや客観的事実は存在せず、私たち一人一人の視点の数だけ真実が存在する」という意識の普遍的構造が見えてくるといいます。

 

 例えば、私たちはざっくりとリンゴと呼ばれる対象を見て、疑いもなく「リンゴ」と認識します。赤いと聞けば黒ずんで見えたとしても「赤い」と見なし、美味しいからと勧められると多少すっぱく感じても「美味しい」と口にします。「リンゴ」「赤い」「美味しい」はいずれも客観的事実を捉えてはいません。それでも《言葉》という視点を与えることによって、そこに事実とは異なる固有の「存在」と「意味」が立ち上ります。

 

 フッサールの考えを推し進めると、人は誰しも《言葉の世界》の中で生きていることになります。私たちは言葉がもたらす「存在」と「意味」を、あたかも物が実在するのと同じような仕方で受け取っています。そうした意識構造は、私たちの《過去の言葉》を《新しい言葉》に組み替えることで、人生が再生し得ることを暗示しています。

 

 この物語には、主人公のさつきが憎しみや悔恨や希望などの言葉による判断を一旦留保することで、新たな再生のイメージが訪れるのを待つ姿が描かれています。それがどんなイメージで、どんな変化を彼女にもたらすのか興味は尽きませんが、フッサールが解明した心の構造について最後に少し付け加えておきます。

 

【他者との対話】

 フッサールによると、私たちは他者との対話を通じなければ意識に浮かぶイメージを認識する術がありません。孤立した状態では、心にどんな自由なイメージを得たとしても、それを意識に取り出すことは出来ません。あるいは、外部から閉ざされた集団の中では、その集団の支配的な考え方から抜け出すことは不可能です。それはカルト教団や独裁者の国に限らず、私たちの誰もがはまり得る落とし穴です。

 

 今回はどうも分を越えた話題に踏み込んでしまいました。私の説明が足りない部分はWikipedia等で補足してくださいますようお願いします<(_ _)>

 

【神の子どもたちはみな踊る】(『神の子どもたちはみな踊る』より)

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 今回は表題作のご紹介です。『神の子どもたちはみな踊る』は、ジャズのスタンダード・ナンバーから来ています。「しかめっ面なんかしてないで、歌って踊れば悩みなんて振り払えるよ!」と歌った黒人霊歌が原曲です。陽気なリズムをイメージしながら本作を読み進めてみたいと思います。

 

《あらすじ》
親と暮らす善也は神谷町の出版社に勤めている。信仰にのめり込む母親の突発的で破滅的な行動が心配で、25歳の今にいたるまで彼は家を出ることができずにいた。ある日の帰宅途中、耳たぶの欠けた男を目撃した彼はあとをついていった。「欠けた耳たぶ」は彼の生物学的な父親に関する数少ない手がかりのひとつだった。

 

『僕は何をもとめていたのだろう』

僕はいったいこのことで何をもとめていたのだろう?歩を運びながら善也は自分に問いかけた。僕は自分が今ここにあることの繋がりのようなものを確かめようとしていたのだろうか?自分が新しい筋書きの中に組み込まれて、より整った新しい役割を与えられることを望んでいたのだろうか?

 

也は自分が追い回していたものの正体が、自分自身の「影」であったことに思い至る。そして、神様のお使いで被災地に赴いた母親のことを思い、別れた恋人のことを思った。信者の一人である田淵さんのやせ細った手を最期に握ったときのことを思った。自分を取り巻く物事の輪郭が、少しずつ明確になっていくのを義也は感じる。

 

教条主義VS批判主義】

 物語の主人公のように、自分を取り巻く環境がどうしても受け入れ難いと感じられる場面が、誰の人生にもきっと訪れます。そんな時には、それまでに自分が抱えていたものの見方を一から考え直してみる必要性が生じます。

 

 哲学者のカントもそうであったかは分かりませんが、彼は人間の理性・感性などを根本から問い直しています。それは「私は何を知り得るか《純粋理性批判》」「私は何を為し得るか《実践理性批判》」「私は何を望み得るか《判断力批判》」という有名な三つの問いです。

 

 そのカントが下した結論のひとつが、「人間はこの世界の本質を客観的に認識することは出来ない」というものです。例えば、「真、善、美」という理想は、「認識され得るものではなく、ただ意志され得るだけだ」と彼は語っています。

 

 もし仮に、人間や世界の「ほんとう」が全て明らかになってしまったとしたら、私たちはそれ以上に何かを知ろうとすることも、何かを成そうとすることも出来なくなりはしないでしょうか。それはむしろ自由を奪われるのと変わりありません。こう考えると、カントが導いた「人は世界の本質を認識し得ない」という結論は、逆説的に私たちの自由意志を保証してくれています。

 

 この物語には、幼いころから自分を拘束してきた教条主義に対して、カント的な批判主義を自分の中に取り込むことで人間的な成長を遂げる2世信者の生き方が描かれています。ただこの作品は、教条主義と批判主義のどちらが正しいかを問題にしているわけでもないようです。その両極を行きつ戻りつしながら、自由でしなやかな心を失わないことが何よりも大切であるように私には感じられました。