村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【あしか祭り】「カンガルー日和」より

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 本作は各種のイデオロギーが蔓延した社会の風刺が描かれていますが、テンポの良さと物語全体を包むユーモアで文句なしの面白さです。

 

【要旨】

  • 玄関のベルがカンコンと鳴り、ドアを開けるとそこにあしかが立っていた。
  • 「僕」はなんだかよくわからないまま「あしか祭り」の意義について拝聴している。
  • あしかレトリックに悪意はなく、連中はただしゃべりたいというだけのことなのだ。

 

【あしかレトリック】

要するに、全ては僕の責任なのだ。たとえどんなに酔っ払っていても、新宿のバーで隣に座たあしかに名刺なんて渡すべきではなかったのだ。誰だってそんなことは知っている。だから誰も ― 気の利いた人なら ― あしかに名刺を渡したりはしない。

 

アクの強い「あしか」が登場し、詭弁を駆使して「僕」に詰め寄ります。「あしか祭り」なるものを運営する「あしかのコミュニティー」とは、特定の組織や団体というよりは、偏った主義や主張や狭量な世界観全般を指していると読むべきでしょう。

 

この「僕」とあしかの掛け合いの妙がこの作品のキモなので、会話部の引用はあえて避けますが、世にも珍しい『あしかレトリック』を堪能してみてください。

 

【間違ったイズム】

 さて、ボクたちは歳を重ねるにつれ、ややもすれば根拠のあやふやな《イズム(=主義や主張)》に染まってしまっているのではないでしょうか。若い世代からみれば『無神経でアクの強い「あしか」』とは、このボクら昭和の世代を指しているのかもしれません。

 

初期の村上作品には、本作のように風刺の効いたものも見受けられます。ここでは「イズムそのものに対するしっくりこない感じ」がうまく表現されていて、フラットな視点のとぼけた語り口がその面白さを引き立たせています。

 

その一方で「あしか」に対する作者のいくぶん寛容な姿勢から、次のようなメッセージも読み取れます。

 

   ボクたちはときに間違った考え方に固執してしまう弱い存在である

 

作者は後に『卵と壁』という比喩で、そんな人間の弱さに寄り添う小説の在り方について全世界に向けて発信しているのですが、それについてはまた別の機会に。