村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【駄目になった王国】「カンガルー日和」より

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  本書の描く世界観を理解するのはなかなか難しいことかも知れません。なにしろ本文中でも『説明するのは特殊な作業であり、至難の業である』と漏らしているくらいですから。ともかく、奇妙な読後感が残る本作をご紹介します。

 

【要旨】

  • 大学時代に出会ったQ氏との思い出の数々。
  • 十年ぶりに見かけた彼は僕のことにまったく気づかなかった。
  • 立派な王国が色あせていくのは、二流の共和国が崩壊する時よりずっと物哀しいという。

 

『Q氏のこと』

「僕」は親友であったQ氏の人となりについて、もどかしい想いを抱きながら説明を試みます。

 

Q氏はその頃僕が住んでいたアパートの隣の部屋に住んでいた。塩を貸したりドレッシングを借りたりしているうちに我々は仲良くなり、そのうちに部屋を行き来してレコードを聴いたり一緒にビールを飲んだりするようになった。僕と僕のガール・フレンドと彼と彼のガール・フレンドと四人で鎌倉までドライブに行ったこともある。

 

それから十年くらいあとになって偶然にも「僕」はQ氏に出会います。

 

僕は赤坂近くのホテルのプールサイドで本を読んでいた。Q氏は僕の隣りのデッキ・チェアに座っていた。Q氏の隣りにはとても洒落たビキニを着た足の長い女の子が座っていた。彼女はQ氏の連れだった。

 

Q氏に話しかけられずにいるうちに、やがて「僕」のことなどそっちのけで二人は痴話喧嘩を始めました。

 

【ボクたちの王国】

 さて、ボクも学生時代に出会った仲間のことを思い出すことがあります。サークル活動を通じて同じ釜の飯を食べ、熱い議論を交わしながら育んだ思い出の数々。でも、就職や結婚を機に徐々に互いに顔を合わせることもなくなってしまいました。

 

  ボクたちが作り上げた友情の王国は崩壊してしまったのか?そうでないのか?

 

 今となってはそれを確かめるすべすらボクにはありません。

 

【友情の描き方】

 文学の世界では、しばしば風変わりな《友情》が登場します。例えば、フィッツジェラルドやチャンドラーの描く《友情》は極めて特殊な関係性を描いています。

 

 『グレート・ギャツビー』では、高貴な家柄のニックと素性の知れないギャツビーとのあいだに虚飾と野心を介した絆が生まれます。また『ロング・グッドバイ』における私立探偵マーロウと情夫テリー・レノックスとの交友には退廃的な雰囲気が漂います。どちらも悲痛な終焉を迎えるのですが、社会通念とは一線を画した《友情》の有り様に引き込まれます。

 

 村上春樹が本作で描いているのは、欠点のないQ氏と主人公のあいだに結ばれた《友情》が、その『律義な笑顔』によって終焉を告げられるという物哀しい話です。何の救いも無い話なのですが、少なくともこれまでに感じたことのない新しい何かがそこにあるように思えてなりません。ノスタルジックな気分と共に不思議な後味を残す作品でした。