村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【眠り】(TVピープルより)

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 さて、テレワークの合間にリビングを覗くと、ソファーに寝そべって午後のワイドショーを楽しんでいる妻の後ろ姿。結婚して16年。専業主婦の妻はたまに訳の分からないイライラをまき散らす以外は特段悩みもない様子で・・・ん?訳の分からないイライラ⁉ いやいや取り越し苦労はやめましょう。居眠りを始めた彼女の寝息を聞きながら私は不安を吹き払います(^^;)。というわけで本作のご紹介を始めます。

 

《あらすじ》
中に目を覚ますと黒い服を着て痩せた老人が私を凝視していた。大きく放った《無音の悲鳴》が細胞の隅々にまでしみとおり、以来私は一睡もしていない。拡大する意識の誘惑にのめり込む一方で、義務として買い物をし、料理を作り、掃除をし、子供と夫の相手をした。肉体は衰弱するどころかはちきれんばかりの生命力を取り戻す。そして17日目。今ではもう、眠りというものがどういうものであったか、私には思い出せない。

 

【吐き出すことの出来ない思い】

私はしばらく目を閉じていた。それから目を開いてまた息子の寝顔を見た。そして何が私を苛立たせるのかを知った。息子は父親と寝顔がそっくりなのだ。そしてその顔はまた姑の顔とそっくりなのだ。血統的なかたくなさ、自己充足性ーーー私は夫の家族のそういうある種の傲慢さが嫌いだった。

 

眠によって拡大した意識がもたらしたのは、本当は夫のことを愛してはいないという事実。夫が私の気持を理解できないように、息子が大きくなっても私のことを絶対に理解しないだろう。途切れることなく続く意識のなかで、消し去ることの出来ない思いが膨らんでいく。

 

【果てしない暗闇】

死とは要するに、普通の眠りよりはずっと深く意識のない眠りーーー永遠の休息、ブラックアウトなのだ。私はそう思っていた。でもあるいはそうじゃないかもしれない、と私はふと思った。死とは、眠りなんかとはまったく違った種類の状況なのではないのだろうかーーーそれはあるいは私が今見ているような果てしなく深い覚醒した暗闇であるかもしれないのだ。

 

姻生活の形骸化、母性愛の喪失、絶えず蓄積していく思考と行動の偏った個人的傾向。死が休息でないとしたら、この不完全な生の果てにどんな救いがあるというのか。不眠という日常からの逸脱は、ついに出口のない苦悩と恐怖を彼女にもたらした。

 

【眠りの恩恵】

 本作を俯瞰すると、専業主婦というペルソナ(仮面)がもたらす苦しみが可視化されていく文脈が見えてきます。こうした「女性」という視点から生まれるテーマは、私たちの社会全体が取り組むべき課題の一つではありますが、ひとまずここでは問題の当事者となった場合に何ができるのか考えてみたいと思います。

 

 主人公の主婦は平穏な日常から眠りが奪われることで、深刻な状況に追い込まれました。彼女の行く手に立ち塞がる《得体の知れない恐怖と暴力》の背後には、直視することの出来ない《死の深淵》が存在します。誰も死から逃れることはできず、誰もこの問題を根本的に解決することなど出来ません。そんな諦観が作品全体を覆っています。

 

 ところで、そもそも眠りとは何なのでしょうか。眠りに関する作中の解説もなかなか興味深いのですが、いまだに解明されない謎も残されているようです。少なくとも、知らないところで私たちを支える、自然の恩恵であると言って間違いはないでしょう。

 

 例えば、呼吸を整えることから始めてみてはどうでしょう。身体の緊張を解きほぐし、時間は短くとも眠りに身をまかせてみます。そして、その眠りから覚めた時、私たちの生を脅かす問題は、依然として目の前に居座っているかもしれません。もしそうであったとしても、人知を超えた眠りの治癒力は、きっと私たちに「生きる勇気」を授けてくれるはずです。

 

 これで作品集『TVピープル』のご紹介はすべて終わりました。一息ついたらまた次のブログに取り掛かりますが、作品の選定については今のところノープラン。頭を空っぽにして今夜はぐっすりと眠ります。おやすみなさい(˘ω˘)