ポール・セローの6作目は 著名な作家の知遇を得ようとロンドンに通う批評家の話です。批評家稼業の俗物ぶりを面白おかしく描いた内容ですが、読み進むにつれて身につまされるような気持ちがしてきました。
《あらすじ》
批評家のブラッドワース教授は毎年夏の休暇にロンドンに向かい、馴染みの作家の書簡を編集しながら、わずかな収穫を持ち帰っていた。確たる成果を切望した彼は、著名な詩人の知遇を得ようと近づいたが、逆に怒りをかって追い返された。あきらめきれない彼は、詩人の家に出入りする便利屋に、30ポンドの報酬で新作の下書きを持ち帰るよう依頼した。
『便利屋と批評家』
ブラッドワースは便利屋ラルフに同情した。彼の仕事と批評家の仕事のあいだには共通点がある。どちらも詩で一家をなした一人の男から命令を頂き、詩人の世界の隅っこの方に立って、そのどなり声を聞き、詩ができあがるのを待つのだ。
便利屋が持ち帰った原稿の写しは、下手なタイピングのつづり間違いのために何の値打ちもない。ふと見れば、便利屋自身が書いた詩が添えられていた。その詩を鑑賞しながら教授は我が身を振返る。自分はどうしてこんなけったいな仕事をしているのだろうかと。
【ヌミノーゼ】
神学者のルドルフ・オットーは、宗教の核心には直感による非合理的で圧倒的な「聖なる体験」が存在すると語り、それを《ヌミノーゼ》と名付けました。
例えば、原始的な感情が湧き起こる神秘体験、概念の把握が不能な超自然現象、霊的なものへの畏怖や魅惑といった《ヌミノーゼ》は、人間の本能的感覚によって感得するといわれています。
憧れの人の偉業に触れたとき、それに比べて自分など無に等しいと畏れ慄きつつも、どうしても引き付けられずにはいられない、という気持ちが起こることがあります。近づこうにも到底かなわない、怖さばかりか不気味さまでも覚える。もし私たちがそういう心境に達したなら、オットーの語る《ヌミノーゼ》に近づいたと言えるのではないでしょうか。
本作に登場する批評家と便利屋は、口ではいきがったりプライドを誇示したりしながらも、本心は偉大な詩人に感化されていることが伝わってきます。学者であれ、素人であれ、圧倒的な御業を前にして、ひたすらにそれを仰ぎ見るしかないという境地を、宗教の域で言えば《ヌミノーゼ》、日常レベルでは《至高体験》と呼びたいと思います。
ポール・セローは批評家のこうした生態を戯画化しつつ、その精神構造を解き明かします。便利屋が書き残した軽妙な詩がこの作品のオチになっていますが、私もそれを真似てお気楽詩人の仲間に加わってみます。
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