村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【ハナレイ・ベイ】(『東京奇譚集』より)

 本作は2018年に映画化されています。吉田羊の熱演には好感が持てましたが、映像ならではの解釈がなくて、少し物足りない感じがしました。映画に関して門外漢なので、間違った見方なのかもしれませんが。代わりといっては何ですが、やみくもな飛躍を試みた私流の解釈をご覧に入れます。

 

《あらすじ》
チの息子はカウアイ島のハナレイ湾で、サーフィン中に鮫に右脚を食いちぎられて死んだ。それ以来、毎年息子の命日が近づくとハナレイを訪れるようになった。それを10年以上続けていたある日、現地でレンタカーを走らせていた彼女は、ヒッチハイクをしている日本人の若者二人を拾った。サチは「ダンカイのおばさん」と呼ばれて彼らから頼られるようになる。

 

『どうして自分には見えないのだろう』

どうして私には息子の姿を目にすることができないのだろう、と彼女は泣きながら思った。どうしてあの二人のろくでもないサーファーにそれが見えて、自分には見えないのだろう?それはどう考えても不公平ではないか?

 

チは自分の目で息子の死を直視したいと望んだ。息子の死の非現実性、彼を愛せなかった後悔がそうした想いを駆り立てた。しかし「その啓示」は、お気楽旅行に明け暮れる若者たちによってもたらされた。

 

【素晴らしき世界】

 現象学によれば、私たちの認識は《生活世界》という日常のなかで生み出されます。同じ時代に同じ場所で生きる者同士の了解によってその信憑が成り立つ一方で、外部からやってくるものを認識できないという限界も抱えています。

 

 サチは若者たちが目撃したという片足の息子の幻影に衝撃を受けました。母親であるはずの彼女にその幻影を見ることが出来ない。それは無償の母性愛だけを正常と信じて疑わない彼女にとって息子からの疎外を意味するのですが、一方では彼女自身の《生活世界》が作り出した認識に過ぎないとも言えます。

 

 愛の理想を失ったサチが次にとった行動は、一切の判断を停止して世界をあるがままに受け入れるというものでした。それは現象学的に見ても、新しい認識の獲得への第一歩となります。以前と変わらない元の生活に戻り、次世代の若者たちと交流するサチの姿に、私はサッチモが歌う『この素晴らしき世界』を思い浮かべて清々しい気持ちになりました。

 

  赤ん坊の泣き声が聞こえる

  やがて彼らは大きくなって

  私が知り得る以上の多くを学ぶだろう

  そして私はひとりつぶやく

  なんて素晴らしい世界だ!

    (『この素晴らしき世界』より)

 

 「近ごろの若い者は~」などとぼやくなかれ。未来を生きる彼らは多くを学び、「新しい認識」という啓示を私たちにもたらす存在なのですから。その日がやってくるまで、私はもうしばらく村上作品の足跡を辿りたいと思います。