村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【ねじまき鳥と火曜日の女たち】「パン屋再襲撃」より

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 本作は『ザ・ニューヨーカー』に掲載されたのち、英語圏向けの短編集『The Elephant Vanishes』の巻頭を飾りました。どこにでもあるような日常的なシチュエーションが綴られていますが、読み進むにつれて何か啓示のようなものが降りてくる気配が感じられます。

 

【あらすじ】
失業中の僕は、聞き覚えのない声の女からの電話を受け取ったのを手始めに、不穏な火曜日に飲み込まれていく。失踪した猫を探しに出かけた僕は鳥の銅像のある庭でサングラスをかけた女の子に出会う。そして家に戻ると妻が・・・。

 

『謎の女からの電話』

「失礼ですがどちらにかけですか?」と僕はあくまで礼儀正しくたずねてみた。「そんなこと関係ないわ。とにかく十分だけ時間を欲しいの。そうすればお互いもっとよくわかりあえると思うわ」

 

『十分間でわかりあうことのできる何か』とはいったい何?「僕」のことを知り尽くしているという謎の女からの誘いに心は揺り動かされる。

 

『妻からの電話』

「あのね」とあらたまった口調で妻は言った。「私、思うんだけど、あなたべつに仕事探さなくてもいいんじゃないかしら」「どうして?」と僕はまたびっくりして言った。世界中の女が僕をびっくりさせるために電話をかけてきているみたいだ。

 

かつては「僕」も希望に燃えたまともな人間だった。いったいいつどこで人生の歯車が狂いはじめたのか?妻からの電話の後で「僕」は自分自身に問いかける。

 

『路地で出会った娘』

「少ししゃべってもいい?」と娘は言った。「すごく小さな声でしゃべるし、返事しなくていいいし、途中でそのまま眠っちゃってもいいから」「いいよ」と僕は言った。「人が死ぬのって、素敵よね」

 

路地で出会った女の子の心には死への憧憬が潜んでいた。命の遺伝、死の質感、暗闇を踏みしめる猫の四本脚。奇妙なイメージの中で「僕」は眠りに落ちていく。

 

【影との対決】

 心理学者の河合隼雄はその著書『影の現象学』で次のように語っています。

 

「影は自我の死を要請する。それがうまく死と再生の過程として発展するとき、そこには人格の成長が認められる。」(影の現象学「影との対決」より)

 

 例えば、性欲などの情動それ自体は生命維持にとって必要なものですが、社会規範の制約によって抑圧されると無意識下に《影*1》を形成します。抑圧を解放しようとする《影》の要求を拒否すればその反動はますます蓄積され、人生のどこかで《影との対決》が訪れると河合隼雄は述べています。

 

 本作には、三人の女性に人格化した《影》が「僕」に何かを気づかせようとする様子が描かれているように思えるのです。それは疑義や懐柔や葛藤を交えつつ、自我の死を要請しています。同時に『世界のねじを巻く鳥』や、『袋小路から見た無人の景色』は現代社会の亀裂を予見させます。あるいは、ポストモダン文学の終焉以降、袋小路にはまって停滞する文学への問題提起を掲げているようにも感じられます。

 

 さて、作者はここに提示されたいくつもの問いを、8年の歳月をかけて問い続け『ねじまき鳥クロニクル』という大作に結実させるのですが・・・それについてはまた別の機会に。それでは(^^)/

 

*1:ユングがあげる元型の一つ。個人の意識によって生きられなかった半面、その個人が認容しがたい心的内容を意味する。

【ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界】「パン屋再襲撃」より

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 本作は長いタイトルに反して本文は12ページと短く、歴史上の史実にも深入りしていないので読みやすいかと思います。タイトルの『ヒットラー~』の部分が目に留まったのか、ドイツ語に翻訳された最初の作品となりました。かつてドイツでは村上作品の重訳(英訳⇒独訳)をめぐる論争*1も起きていて、そこに真面目なドイツ人気質を見る思いがします(^^;)

 

《あらすじ》
台所で一週間分の日記をつけていると、窓の外を吹き抜けていく激しい風のうなりに気がついた。予報では降水確率0%の全盛時のローマ帝国のような平穏な日曜日のはずなのに。僕は今日一日の簡単なメモに「ローマ帝国の崩壊」と記した。

 

『一週間ぶんの日記』

そのとき僕はいつものようにーーーつまりいつも日曜日の午後にそうするようにーーー台所のテーブルの前に座って害のない音楽を聴きながら一週間ぶんの日記をつけていた。僕は毎日の出来事を簡単にメモしていて、日曜日にそれをきちんとした文章にまとめることにしているのだ。

 

『僕』は22年間欠かすことなく日記を書き続けている。数値化された情報こだわり、映画や音楽に対するやや偏った嗜好をもつ、この世界ではごく普通の社会人のひとりだ。

 

『強風世界』

 「でも、どうして突然あんな激しい風が吹いて、それがまたぱたりとやんじゃったんだろう?」と僕は彼女にたずねてみた。「さあ、わからないわ」と彼女は僕に背中を向けて、爪の先で海老の殻をむきながら言った。「風については私たちの知らないことはいっぱいあるのよ。・・・」

 

風が止むと何ひとつ変わらない景色に戻っていた。『僕』は窓の外で吹き荒れた強風の意味についてぼんやりと思いを巡らせる。いつしか歴史が終焉してしまったこの世界で・・・。

 

【歴史の終わり】

 国家が成立、発展、崩壊を繰り返してきた過程を近代化のプロセスとすれば、民主主義と自由経済が実現した安定持続社会はその最終形態と見なすことが出来ます。政治経済学者のフランシス・フクヤマはこのような状況を《歴史の終わり》と名付けました。その一方で、人々の関心は個別細分化し、社会通念を持たない個人史が刻まれる状況が加速度的に進んでいます。

 

 本作に登場する『ローマ帝国の崩壊』『1881年のインディアン蜂起』『ヒットラーポーランド侵入』といった歴史の興亡は、日記を記述するための単なる記号として扱われていて、まさに《歴史の終わり》的状況を感じさせます。さらに日記の中身は事実に反することもごちゃまぜに記述されていて、孤立化していく個人の脆弱さがそこに漂います。

 

  2021年の現在、物語が描くディストピア観は急速に現実味を帯びてきました

 

 主人公の「僕」に劣らず日々の氾濫する情報に右往左往し、映画や音楽の趣味は偏向的で、吹き荒れるコロナ禍の猛風世界を呆然と見届けるしかないボクは、愚にもつかないブログを今日も更新しています(-_-;)

*1:国境の南、太陽の西』のドイツ語版が、英語からの重訳であることをスキャンダルとして問題視した論争。

【双子と沈んだ大陸】「パン屋再襲撃」より

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 本作は『1973年のピンボール』という中編のスピンオフ作品です。村上作品になじみのない人のために少しだけ解説しておきます。

 

[解説:1973年のピンボール] 

 『1973年のピンボール』は208と209のトレーナーを着た双子と主人公のひと夏の日々が描かれた作品です。双子に促されて主人公の『僕』が壊れた旧式の配電盤を葬るという場面が登場しますが、そこには『僕』の抱える閉塞感とその原因である過去(の文学)への訣別が寓話的に描かれています。

 

《あらすじ》
茶店で手にとった写真雑誌のに双子の写真が載っているのを見つけた。双子と新しい宿主の姿は今の僕にとっては通り過ぎてしまった過去の焼き写しにすぎない。それでもなぜだか気になって仕方がない僕は、彼女たちの登場の意味を問い始める。

 

『あれから半年後』

その写真の中の双子は例のーーー僕と一緒に暮らしていたときにいつも着ていたーーー「208」と「209」という番号のついた揃いの安物のトレーナー・シャツではなく、もっときちんとしたシックな恰好をしていた。一人はニットのワンピースを着て、一人はざっくりとしたコットンのジャケットのようなものを着ていた。髪は以前よりずいぶん長くのびていたし、目のまわりには薄く化粧さえしていた。

 

 写真の中の双子は『僕』の知っていた頃とは少し様子が違います。改めて1974年4月の曇った夕暮の街を見渡すと、そこには過去との繋がりが消えた妙に静かな世界が広がっていました。

 

『沈んだ大陸』

僕は天井を眺めながら海に沈んでしまった古代の伝説の大陸のことを思った。どうしてそんなもののことを考えついたのか、僕にはよくわからない。たぶん十一月の冷たい雨の降る夜に傘を持っていなかったせいだろう。あるいは明け方の夢の冷ややかさを残したままの手で名前も知らない女の体をーーーどんな体だったかも思い出せないーーー抱いたせいだろう。

 

 ホテルで見知らぬ娼婦に『僕』は語りかけます。かつて双子といっしょに見つけ出した再生の物語が近代的システムの隙間に埋もれてしまったように思えると。でもそれは『きっと疲れてるせいだ』とはぐらかされてしまいます。

 

  『僕』が見た1974年の景色の違和感は、ただの思い過ごしなのでしょうか?

  

【差異と交換の戯れ】

 ボードリヤールは、模倣を意味する《シミュラークル》という概念によって、大量生産社会を読み解いています。模倣の差異が価値を生み出す現代社会では、労働や生産をはじめ、消費、サービスそしてコミュニケーションさえ取り換え可能です。すべてが交換可能な模倣となったその先は「真と偽」「虚と実」の境界も無くなり、現実という概念そのものが溶解してしまうと彼は警告しました。

 

 本作は、現代社会に起こったこうしたパラダイムシフトを《沈んだ大陸》というイメージに託して、その喪失感を描いています。『僕』が1974年の世界に見たのは、ボードリヤールが解き明かしたような大量生産社会が時代をすっぽりと覆った姿でした。そんな時代に、いったいどんな文学の言葉が通用するというのでしょうか?

 

 村上作品はこのあと《シミュラークル化した80年代》を華麗にダンス・ステップを踏みながらすり抜けてていくのですが、それについてはまた別の機会に。

 

【ファミリー・アフェア】「パン屋再襲撃」より

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 本作は《シチュエーション・コメディ》の約束事を忠実になぞっています。コミカルな場面では[笑い声]、放送コードにかかりそうなセリフには[ブーインング][警告音]を想像しながら読むとその世界観に没入できます。身近で庶民的な問題をとりあげながら結論を避けて余韻を残しつつ終わるのがセオリーとされています。

 

【あらすじ】
僕と妹が二人で暮らすようになったのは5年前の春、妹が東京の大学に来たことがきっかけだった。妹は旅行代理店に就職した年の夏休みに女友だちとアメリカの西海岸に出かけ、そのツアーグループで知り合ったコンピューター・エンジニアの男性と結婚を前提に付き合い始めた。

 

『スパゲティー・ハウスの場面』

「だいたいね、あなたの物の見方は偏狭にすぎるのよ」と彼女はコーヒーにクリームを追加して入れながらーーきっとまずいのにちがいないーー言った。「あなたはものごとの欠点ばかりみつけて批判して、良いところを見ようとしないのよ。・・・」

 

五月の日曜日の外食中に、突如妹が「僕」のことを批難し始めた[どよめき]。ほんの一年ばかり前までは、「僕」なりの生き方を一緒になって楽しんでいたし、憧れてもいたはずなのに[ざわざわ]。実のところ「僕」が妹の婚約者をあまり気に入っていないことに彼女は苛立っていたのだ[(納得の)あ~ァ]

 

『婚約者の実家の場面』

まったくねえ、と僕は思った。彼はそれまで僕が見たこともないような奇妙な柄のセーターを着て、その下に色のあわないシャツを着ていた。いったいなんだってもう少しまともな気のきいた男をみつけてこなかったんだ?

 

「僕」はその婚約者のことが最初からあまり好きになれなかった[ざわざわ]。堅物で趣味の悪い服装、笑いのツボもなんだか変で何から何まで自分とは正反対[失笑の声]。妹に対しても少なからず疑問を抱くようにさえなった。というか正直なところがっかりしていた[一斉にため息]

 

自己実現のプロセス】

 成長過程で親兄妹に自己を同一視していた場合、その影響下から脱するときには激しい反動が表出すると言われています。自己の劣等を補うために、これまでと真反対なものを求めて家族を驚かせたり心配させたりすることも。当人にしてみれば、抑圧からの解放や自由の獲得に夢中になるばかりで、周りの声に耳をかす余裕などありません。

 

 本作はそんな自己実現の延長線上にある妹の婚約話と、突然降って湧いたような変化に動揺する兄のあるあるエピソードです。アウトローな兄と気の強い妹、頼りなさげな婚約者という登場人物の誰もが何かを欠いていながら、その三人が少しづつ対話へと近づいていく様子が描かれています。

 

 進学や就職、結婚は当人にとっては素晴らしいことですが、その一方で当人を取り巻く人たちの心配や気苦労が少なからずついて廻るものです。それが血のつながった身内であればなおの事。喜びと不安の渦中でそのことに気付き感謝の気持ちを伝えることができたなら、そこから本当の新たなステージが始まるのですが・・・余計なお節介でしたかな('ω')?

 

【象の消滅】「パン屋再襲撃」より

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 世の中の事象は因果律に従って淡々と進んでいるように見えます。しかし、そうしたボクたちが素朴に信じる論理は、実は自然界において最初から崩壊していると言われます。にわかには信じられませんが、量子力学の学説によれば、人の目の届かない所で神様はこっそりとサイコロを振って物事を決めているようなのです。本作は、そんな超自然の介入する瞬間を目撃してしまった男の不思議な物語です。

 
【あらすじ】
その記事によれば、人々が象のいないことに気づいたのは5月18日の午後の2時だった。消えたのは象だけではなく、飼育係の男も一緒に姿を消していた。「僕」は新聞記事を最初からもう一度読みなおしたが、それは相当に奇妙な記事だった。事件の結論はひとつしか見あたりはしない。象は逃げたのではなく「消滅」したのだ。

 

『落成式の風景』

象を前にして町長が演説し(町の発展と文化施設の充実について)、小学生の代表が作文を読み(象さん、元気に長生きして下さい、云々)、象のスケッチ・コンテストが行われ(その後象のスケッチは街の小学生の美術教育にとっては欠くことのできない重要なレパートリーとなった)、ひらひらとしたワンピースを着た二人の若い女性(とくに美人というほどでもない)が象にバナナを一房ずつ与えた。

 

ここには、象をひきとることになった町の、ほのぼのとした象舎の落成式の風景が描かれています。しかし、何ごともなく過ぎた1年後、象と飼育係は忽然と姿を消してしまいます。それは新聞の地方欄を揺るがすミステリー事件でした。

 

『夜の会話』

 「でもあなたの言い方はすごく変だったわよ。いい?私が『象が消えてしまうなんて誰にも予測できないもの』と言ったら、あなたは『そうだね。そうかもしれない』って答えたのよ。普通の人はそういう答え方をしないわ。」

 

 それは誰かに打ちあけるような類いの話ではないと「僕」は考えていました。しかし、パーティーで出会った彼女に促された「僕」は、その夜のカクテル・ラウンジで不思議な逸話の語り部となります。

 

因果律の破れた世界】

 『シュレディンガーの猫』という思考実験をご存じでしょうか?

 箱の中に入れた猫の生殺与奪を放射性元素の原子崩壊に委ねると、猫は生きている状態と死んだ状態が重なり合って存在するという奇妙な状況が生じます。これは量子力学の基本性質とされる『状態の重ね合わせ』の一例です。実際に箱の中にいる猫の状態を覗き見た人はいません。しかし、量子力学が積み上げてきた成果は、因果律の破れた自然現象が確かに存在することを実証しています。

 

 夕暮れ時に象舎の中を覗き見た時、主人公は偶然にも物理法則が崩壊する現場を目撃してしまいます。この出来事以来、便宜的な世の中はいっそう虚しく思え、消滅してしまった象と飼育係の残像が彼の心に留まり続けます。

 

 この作品を読んだボクはこんな風に思いました。これは現代の遠野物語であり現代人は物質的な豊かさを手に入れながらも精神的な広がりを遂げるすべを見失っているために閉塞的なシステムに取り込まれ・・・・・・いやいやもう止めておきましょう。今回は少し理屈をこね過ぎて、作品を味わう楽しみを奪っているような気がしてきました(-_-;)

 

 本作は『ザ・ニューヨーカー』に掲載された後に、クノップス社から村上作品の海外向け短編集の表題作として刊行されています。

【パン屋再襲撃】「パン屋再襲撃」より

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 福音書には『人はパンのみにて生くるものに非ず』という一節があります。これは神と共に歩むことの重みを説いたイエスの言葉とされていますが、キリスト教徒でもないボクのような人間は『パン』に象徴される生活の諸事に振り回されながら一生を終えることでしょう。時折脳裏をかすめる「パン屋襲撃」的な妄想に悩まされながら。

 

【あらすじ】
結婚したばかりの二人は真夜中に突然耐え難い空腹を覚えた。その昔、僕と当時の相棒が行った「パン屋襲撃」の失敗したことがある。その時の「呪い」が、このひどい空腹感を引き起こしていると指摘する妻。二人は「呪い」を解くために、レミントンのオートマティック式散弾銃で武装して深夜のマクドナルドに乗り込んでいく。

 

『呪いを解くために』

「よく考えればわかることよ。そしてあなたが自分の手でその呪いを解消しない限り、それは虫歯みたいにあなたを死ぬまで苦しめつづけるはずよ。あなたばかりでなく、私をも含めてね」「君を?」「だって今では私があなたの相棒なんだもの」

 

お気楽な相棒と手を組んだ前回の襲撃は、あいまいな政治決着をしたために『呪い』が残されました。超行動派の妻を相棒にした「僕」は、今宵ふたたびパン屋襲撃を決行。深夜のドタバタ劇が再び始まります。

 

【パンの問題】

 《パンの問題》を社会システムによって解決し、神の存在を無効にしようとしたのが《急進的マルクス主義》と言われています。社会主義革命によって市場・貨幣・労働が廃絶された平等社会の実現を目指すその思想はあまりにも急進的過ぎて、結果的に人間疎外という矛盾を引き起こし、人々の支持を失いました。

 

 本作はそのような革命思想を背景とした70年代の全共闘運動を、舞台を現代に移した寓話として蘇らせています。

 

 ややもすればボクたちは、メディアやSNSの情報の洪水の中で呪いにかかってしまい、日常生活に根差した《パンの問題》から遠く離れた仮想現実に迷い込んでしまうことがありませんか? 本作を読み終えたボクはこんな風に感じました。

 

   意識の底に佇む海底火山は、革命思想の次に来る何かを待ち望んでいる

 

 世の中が《竜巻のような空腹感》や《特殊な飢餓感》をあおるときにはくれぐれもご用心を。

 

【羊をめぐる冒険(下)】

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 北海道に舞台を移してから物語は一段とスケールアップします。羊博士に羊男のおなじみの神話的アーキタイプ(元型)も出揃い、物語は羊が象徴する思想の終焉というカタストロフィーに突き進みます。

 

【あらすじ】
「僕」とガールフレンドは羊を探しに北海道へとやってきた。電話帳から無作為に選んだ「いるかホテル」で羊博士と運命的な出会いをし、博士が与えてくれた手がかりをもとにある地方町に行きつく。かつてアイヌの青年と開拓民たちが切り開いたその土地に、謎の羊と鼠、羊博士、右翼の大物などさまざまな思惑が集結していく。

 

『羊博士の転落』

1934年に羊博士は東京に呼び戻され、陸軍の若い将官にひきあわされた。将官は来るべき中国大陸北部における軍の大規模な展開に向けて羊毛の自給自足体制を確立していただきたい、と言った。それが羊博士と羊の最初の出会いだった。

 

羊博士は北方圏共栄の志しを抱いて大陸に渡り、そこで羊に出会いました。羊は長い眠りから覚め、日本の中枢に潜り込み、アジア諸国に苦しみをもたらしました。その後の博士は『羊抜け』の状態で無為の余生を過ごします。

 

『十二滝町の盛衰』

現在の十二滝町のある土地に最初の開拓民が乗り込んできたのは明治十三年の初夏であった。彼らは総勢十八名、全員が貧しい津軽の小作農で、財産といえば僅かな農具と衣服・夜具、それに鍋釜・包丁くらいのものだった。彼らは札幌の近くにあったアイヌ部落に立ち寄り、なけなしの金をはたいてアイヌの青年を道案内に雇った。

 

アイヌの青年は開拓民と共に町の礎を築きました。その史実はドラマチックな共同体誕生の物語なのですが、政府の介入が進むつれ、自由自治がもたらす人々の喜びも悲しみも奪われて、退屈で凡庸な田舎町と化していきました。

 

『「僕」の夢想』

鼠が経営し、僕が料理を作る。羊男にも何かできることがあるはずだ。山小屋レストランなら彼の突飛な衣装もごく自然に受け入れられるだろう。(中断)ジェイ、もし彼がそこにいてくれたなら、いろんなことはきっとうまくいくに違いない。全ては彼を中心に回転するべきなのだ。許すことと憐れむことと受け入れることを中心に。 

 

『僕』は中国人バーテンダーのジェイを中心に、山小屋レストランを開くことを夢想します。『許すことと憐れむことと受け入れること』という言葉には、この社会に向けたメッセージが感じられます。

 

【ねじれの問題】

  アイヌの青年が燃やした情熱が国家の体制に取り込まれていく様子は、読んでいてとても痛々しく感じられます。しかし、国民国家の成立以降に生まれたボクたちが、否応なく国民としての義務と責任を背負わされる現実は、アイヌの青年の立場とさほど変わりはありません。そして、ボクたちの義務と責任のなかには、取り扱いの難しい問題も含んでいます。

 

 例えば、批評家の加藤典洋は著書の『敗戦後論』で、日本の戦争責任の取り方が《ねじれ》を生じさせていると語っています。「戦没者の追悼」と「アジア諸国への謝罪」について全ての人々を納得させるような正解がないために、結論を棚上げ状態にしている状態を指して《ねじれ》と称します。

 

 物語の最後に『僕』と鼠が企てた反撃の狼煙は、ボクらの鬱憤を一時的に晴らしてくれました。しかし、どうやらそれは現実社会の《ねじれ》を根本的に解消するものでは無いように見えます。アジア諸国と共に《許すことと憐れむことと受け入れること》を中心に据えた社会を構築する道筋は、今のボクには未だ見えてはきません。