村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【ケパロス】(『犬の人生』より)

 本作には、ギリシャ神話の『変身物語』に登場するケパロスをめぐる二つの物語が描かれています。一つ目は神話の舞台を現代に移した物語。二つ目はその後日談となるマーク・ストランド独自の創作です。久々にギリシャ神話に触れて、その自由で壮大な世界観に改めて魅了されました。

 

『Ⅰ:ケパロスとプロタリス』

突然あたりがすごく静かになった。不自然なくらい静かだ。私は自分が誰かに見られていることに気づいた。それから何かが、近くにある花の茂みの中でごそごそと動いた。いったい何だろうと思って近づいてみると、そこにひとりの裸の女がいた。

 

パロスは妻のプロタリスに黙って狩りに出かけ、そこで出会った暁の女神に見染められて情欲の日々を送った。1週間後に女神のもとを離れた彼は、帰途の途中で留守の間に美しい妻のプロタリスが浮気をしてはいないかと考えた。彼は疑念の正否を確かめるために変身して妻の前に現れ、彼女の忠誠心を執拗に揺さぶり始める。

 

『Ⅱ:ケパロスとベティー

プロタリスの死後数ヵ月、ケパロスは悲しみに沈んだ。狩猟のことも忘れ、テーブルの前に座って、様々な詩型や言葉の響きと格闘していた。しばしば夜更けに、寝しずまった町の空中を彼の声が漂っていくのを、人々は耳にした。ベティーは彼女の父親の家の暗闇の中で、その哀しみに満ちた詩の断片が、時折のリラの爪弾きを伴って聞こえてくるのを耳にし、思わず涙した。

 

る悲劇によって妻のプロタリスを失ったケパロスは、失意の気持ちを詩の創作に向けていた。一方、父親との確執に悩んでいた現代女性のベティーは、ケパロスの詩に出会って意気投合し、二人で共に暮らすようになった。ベティーに肩入れしていた神々は事のなりゆきに満足したものの、プロタリスを忘れられないディアナ神だけは復讐へと動き出す。

 

【神話の力】

 神話学者のジョゼフ・キャンベルは、人間の成長における神話の重要性について研究しています。神話が語るのは私たちの中のとても深淵な部分、謎に包まれた部分、意識に上るまでに時間のかかる部分です。それは神秘体験を伴って現れるために、伝統文化では神の御業に置き換えることで私たちの知覚可能な概念に翻訳されます。

 

 この「聖なる現象」は、実際に深く体験しなければ私たちにとってはただのお話にすぎません。神話に登場する賢者たちは、人がこの世に生まれた意味、人生の目的について語っているのですが、それが私たちの心に響くのはきわめて稀なことです。

 

 マーク・ストランドは、神の御業を突拍子もない形で顕在化させ、ギリシャ神話の世界観を誇張して描きました。おそらく現実世界で起こる不条理な出来事を寓意的に表現しようとしているのでしょう。しかし、その破滅的な結末には、現代文学がもはやギリシャ神話のような力を持ち得ないという落胆も感じられます。

 

  現代人は誰しも心に神話を持たぬために日々迷い生きる意味を探し続ける

 

 最後にギリシャ人の芸術について語った村上春樹の文章を引用しておきます。

 

 もしあなたが芸術や文学を求めているのならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるためには奴隷制度が必要不可欠だからだ。古代ギリシャ人がそうであったように、奴隷が畑を耕し、食事を作り、船を漕ぎ、そしてその間に市民は地中海の太陽の下で詩作に耽り、数学に取り組む。芸術とはそういったものだ。(『風の歌を聴け』より)

【ザダール】(『犬の人生』より)

 

 ザダール*1クロアチア中部の小さな港町で、ヨーロッパを代表する観光地と言われています。各種旅行代理店のHPを見ると、ローマ帝国時代の遺跡や中世に建てられた教会など、観光スポットが揃った魅力的な場所であることが分かります。今回ご紹介する物語には、かの地で現実の裏側に迷い込んでいく旅人の姿が描かれています。

 

《あらすじ》
ダールを旅行中に、私は一人ぼっちでいることに耐え切れなくなった。そんな折、カフェで一組の男女を目にする。どことなく陰のある美しい女の姿に見とれて、私の鬱屈した気持ちは雲散霧消した。依頼私は妄想を膨らませながら彼女の姿を追う日々を送り始める。ある日美術館に行き、建物の部屋を渡り歩き最後の部屋に入ると、女がそこで私を待ち受けていた。

 

『女のところに行って、その手を取った』

 わたしはしばしば思うのだが、我々が自分たちのために選んだ世界の裏側には、もうひとつのべつの、選ばれなかった、説明のつかない世界が存在し、それが我々を選ぶことになる。(中略)だからこそわたしはそのとき、茫然自失、何をしていいのかわからない、というような羽目にはおちいらずにすんだのだ。わたしはまっすぐに女のところに行って、その手を取った。

 

は私の手を引いてホテルへと誘った。部屋にたどり着くまでに何度もキスをしながら。しかし、部屋に入ってからの記憶は定かではない。なぜなら奥にある安楽椅子にあの男が座っていたから。男はじっとこちらを見つめ、女は私の隣に身を横たえ、私は女の太腿に指を這わせる。そして無言のままに時が流れていく。

 

【連続性へのノスタルジー

 思想家で作家のバタイユはその著書『エロティシズム』のなかで、人間はこの世界にただ1人投げ出され、孤独に死んでいく不連続な存在であると語っています。しかしだからこそ、私たちは《失われた連続性へのノスタルジー》を渇望しながら生きていると言えます

 

 旅の途中で孤独のパニックに陥った主人公は、その時目にした女との妄想に囚われます。それはまさにバタイユの言う《連続性へのノスタルジー》が高じた結果。しかし、甘い幻想ははぎ取られて、醜悪な現実に突き落とされます。

 

 このように《連続性》とは、現実のなかでは取り出すことの出来ない幻想に過ぎません。それは死の不安に端を発しているために、私たちは際限なく《連続性》を追い求め、繰り返される魅惑に人生は絶えず彩られます。バタイユによれば、その魅惑の根底にあるのは、不安を打ち消す愛と調和への憧憬と、不安を乗り越えようとするる蕩尽です。

 

 人は誰しも死の不安から愛と調和を希求し、死の不安から果てしない蕩尽を貪る

 

 愛と調和の極致が「人類愛」であるとすれば、蕩尽の行きつく先は「戦争」。そのどちらも同じ人間の生の本質に根差している、というこのバタイユの説を、信じるか信じないかはあなた次第(^^)/ ただ、ザダールという小さな港町がたどってきた歴史は、人の抱える二面性を何よりも雄弁に物語っています。

*1:この地は帝政ローマに始まり、中世になるとフランク王国東ローマ帝国の影響下におかれた。その後ハンガリー王国が領有するが、十字軍を率いたヴェネツィア共和国に占領され、街は破壊と略奪に見舞われた。ナポレオンによりヴェネツィア共和国が滅亡し、オーストリアに譲渡。第一次世界大戦オーストリア帝国が敗れると、イタリア王国に譲渡。第二次世界大戦後、ユーゴスラヴィア領となるが、その後クロアチアとして独立。独立戦争では、セルビア軍の攻撃で大きな打撃を受けるも復興が進んで今日に至る。2017年に世界遺産に登録。

【ウーリー】(『犬の人生』より)

 本作には自意識過剰な青年の破天荒なエピソードが記されています。そういえばかつての私の仲間内でも、さまざまな武勇伝が飛び交ったものですが、改めて振り返ればどれもこれもコケ脅し('ω') それはさておき、今回も私たちの想像力の斜め上を行くマーク・ストランドの作品をご紹介します。

 

《あらすじ》
の友だち、ジョージ・ウーリーの話。彼はもう死んでしまっている。だからあなたが僕の声の中に聞き取るのは、ウーリーの声の影だ。彼の人生に比べれば、ほかの友人たちの人生なんて、みんな核心を欠いて見える。世間は彼の名を知らなかったし、彼にチャンスを与えなかったし、彼は認められぬままに墓に葬られてしまった。

 

『元気いっぱいの男』

ウーリーは元気いっぱいの男だった。スポーツマンであり、ゲームの考案者であり、詩人であり、疲れを知らぬ恋人であった。彼はまるで有名人みたいに足どりも軽く動き回った。自分の行く手には、途切れることなく赤いカーペットが敷かれていくのだ、というように。

 

ーリーは皆の前で詩を披露し、一騎打ちのテニス試合に挑み、謎の「死神ゲーム」を考案した。しかし、どことなく見当外れで、傍から見れば気まずい空気が漂うものばかり。つまり、若さゆえのイタイ男。それがワイルドでワィヤード(変わり者)でワンダーなウーリー!!

 

【モラトリアム期】

 《モラトリアム》の本来の意味は非常時における「支払い猶予期間」です。心理学者のエリクソンは、社会的責任を一時的に猶予されている青年期をさす概念として提案しました。生きがいや働きがいを発見するための準備期間として、海外では広く定着していますが、新卒採用が主流である我が国では、否定的なイメージを持つ人が多いようです。

 

 本作はモラトリアム期の若者に特徴的な、社会性を持たない未成熟な人格を寓話的に描いています。その意味でウーリーという人格を抹殺したのは、取りも直さずこの物語の語り手である「僕」自身であった、という寓意を読み取ることも出来ます。

 

  人は誰しも自分探しで出会った自己の影を切り離して、大人への道を歩み始める

 

 アメリカでは学生や知識人を中心に抗議集会が頻繁に行われ、大規模なデモ行動に発展することも少なくありません。その内容の是非はともかく「抗議する権利」を行使することは民主主義の醸成に必要なプロセスであると見なされています。アメリカ社会全体で若者たちの成長を辛抱強く見守っているのです。

 

 ちなみに我が国では、高校生によるデモ参加は学校への届け出が義務付けられます。これでは18歳有権者の社会参加を望むことなど、そもそも無理な話でしょう(-_-;)

 

【ベイビー夫妻】(『犬の人生』より)

 本作にはボブとベイブのベイビー夫妻のちょっと変わった一日が描かれています。初めて読んだときには、いくつものクエスチョンマークが私の頭に浮かびました。ベイビー夫妻とは何者か? 彼らはどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか? 詩的なメタファーに彩られた物語をご紹介します。

 

《あらすじ》
リフォルニアに朝が訪れて、ベイビー夫妻は目を覚ます。気怠い仕草のあと、固定化され、装飾され、責務の試練と哀しみのすぐ間近にあるという光の世界に彼らは身を置いた。ボブとベイブはどちらも見覚えのあるハリウッドスターに似た顔立ちをしている。朝食の席でボブは、唐突に饒舌なスピーチを始めた。

 

『彼らは次から次へとやってきた』

「彼らはポーランドやらロシアやら、フランスやドイツやら、トルコやらコンゴや、アイスランドやイタリアからやってきたんだ。中国やフィリピンからやってきたんだよ。彼らは次から次へとやってきて、叔母さんやら従兄弟やら妹やら弟やら、母親やら父親やらをつれてきた。船や汽車やら飛行機やらでやってきた。歩いたり走ったり、リュックやトランクや・・・」

 

ってスピーチを聞いていたベイブは、声を上げて笑い出す。予想外の反応に会ってボブはびっくりしたが、すぐに気を取り直した。その後も彼らは、過去の道のりを思い出してはうぬぼれたり、怖気づいてみたり。断食を思い立ったかと思えば、それを止めて悔やんだりと、二人はひと時も心休まることがない。

 

アメリカの歩み】

 アメリカの歴史は、1776年のイギリスとの紛争中に発布された「独立宣言」に始まります。独自のフロンティア・スピリットを掲げて西部開拓を手始めに、メキシコ割譲地カリブ海諸島、フィリピン、ハワイ、グアムを次々と併合し、経済を大きく発展させます。経済の担い手として多くの移民を受け入れたのも、この頃です。

 

 第二次世界大戦に勝利してからは、欧州や太平洋地域への影響力を確固たるものとし、建国後200年足らずの間に大国の地位を手に入れました。また、軍事ばかりでなく、政治、経済、科学技術においてもリーダー的役割を自認し、特に文化においてハリウッドを中心とした映画産業は、今でも世界を席巻しています。

 

 本作は、《アメリカの歩み》をベイビー夫妻の一日として寓話的に描いています。欧州諸国に比べてアメリカの歴史は圧倒的に浅いために、大人の姿をした赤ん坊(ベイビー)と表現されているようです。

 

 そんなアメリカが、冷戦終結以降は唯一の超大国として君臨し、歴史ある国々を掌握している現実は皮肉なものです。その一方で、アメリカ人として生きるのは羨ましいどころか、むしろ大変なことであることがこの作品から伝わってきます。

 

  人は誰しも運命づけられたそれぞれの場所に投げ出される。過去から積み上げられた歴史を背負って歩むとき、かけがえのない何かが動き始める。

 

 いずれにしても、アメリカはこの先も持ち前のフロンティア・スピリットを抱いて民主主義の覇権に向って突き進んで行くのでしょう。ただ、その担い手であるボブとベイブの姿が、近年では白人から非白人へと変貌しつつあることに、彼らは少し戸惑っているように見えますが。

 

【将軍】(『犬の人生』より)

 本作に登場する『将軍』とはダグラス・マッカーサーのことを指していると思われます。私が彼についてまず思い浮かべるのは、コーンパイプをくわえて厚木基地に降り立つ姿。GHQ最高司令官として占領下の日本に君臨し、民主化政策を推し進めた人物です。朝鮮戦争から退く際には「老兵は死なず」の名言を残していますが、彼の実像を知る人にとっては苦々しい思い出も蘇るようです・・・

 

《あらすじ》
軍は部隊の士気の低下について気をもんでいた。この戦争には戦うだけの意味があるのだということを証明できる人間は将軍をおいていない。彼は前線に出て行き、敵に向ってこぶしを打ち振るい、閃光を放って飛び交う銃弾の中で国家を歌ってみせた。しかし、そのような将軍の勇敢さをもってしても、敵軍の前進を阻止することはできなかった。

 

『負傷者を戦いに復帰させよう』

 「こんなことを言うとあるいは酷く聞こえるかもしれないが、私は負傷者を戦いに復帰させようと考えている。武器を与えずに、よろよろとした足どりで戦闘に参加させるのだ。我々は敵に教訓を与えねばならぬ」

 将軍は歩を止めた。彼は眉をしかめて、副官をじっと見つめた。「もしそれがうまくいかなかったなら、何人かの兵士たちを素っ裸で戦場に出すのだ。そして無人地帯で踊らせる」

 

劣な作戦により戦況はますます悪化していき、多くの兵隊が死んでいった。しかし、この敗戦によって逆説的に崇高な理念が証明されたとして大統領は大いに喜んだ。そして将軍に新しい任務を打診する。この腐りきった世界に、本当の恐怖とは何かを立証するために、将軍は再び戦場に復帰した。

 

バターン死の行進

 『バターン死の行進』とは、太平洋戦争中の日本軍によるフィリピン進攻作戦で、日本軍に投降したアメリカ軍とフィリピン軍の捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡した行軍です。

 

 当時元帥としてフィリピンを統治していたのがマッカーサーであり、日本軍の猛攻によって彼の軍事作戦はことごとく失敗に終わりました。降伏して捕虜となったアメリ将兵は、「絶対に降伏するな」という元帥の死守命令によって疲労と飢餓で衰弱しており、日本兵による暴行や疫病の蔓延も含め未曾有の人的被害を引き起こしました。

 

 このアメリカ史上もっとも痛烈な敗北を喫した敗将であるにもかかわらず、情報統制の効果もあって、マッカーサーは国民から熱狂的に支持されます。そして、このような宣伝価値が戦争遂行に大いに役立つと見なされると、次の朝鮮戦争においても総司令官に任じられました。

 

 本作には将軍と副官と大統領が登場して、深刻な状況にもかかわらずコミカルな覆面トークを繰り広げています。それは誇張されているものの壮絶な局地戦の史実を基にしており、《机上の戦争》と《本当の戦争》がいかに乖離しているか風刺しています。

 

  勝利が単純なものという誤った幻想で、人は誰しも机上の戦争に酔いしれる

 

 今回マッカーサーの経歴を検索すると、実に毀誉褒貶の激しい人物であったことを知り、私の中の彼のイメージは一転しました。歴史上の真実はこれからも掘り起こされていくでしょうが、本作のように文学がそのきっかけを担うこともあるでしょう。

 

 ちなみに、朝鮮戦争の上陸作戦の成功に慢心したマッカーサーは、中国との全面戦争を画策します。この男の戦争にかける執念が危険なものであることにようやく気がついたアメリカ政府は、遅まきながら彼の解任を決断します。

 

  「老兵は死なず。ただ消え去るのみ」

 

 これは歴史の舞台から退場する戦場のモンスターが残した断末魔の言葉でした。

 

【二つの物語】(『犬の人生』より)

 本作はタイトルに掲げられた通りⅠ、Ⅱと題された二つの物語で構成されています。Ⅰは牧歌的な雰囲気のロマンチックな物語。Ⅱは都会的な雰囲気のシュールな物語。二つの物語のあいだに直接的なつながりはありませんが、どちらもアッと驚く結末が待っています。

『Ⅰ』

ローデシア・ブリアリーは、父親のものである大きなコロニアル様式の家の、食堂の窓から厩を眺めていた。光は完璧だった。彼女はこれから乗馬ズボンと長靴に着替えて、ヴィクターに乗ろうと思った。それは誕生日に父からプレゼントされたまっ黒な去勢馬だった。

 

の予感に耽りながら馬を走らせるローデシア。歌を口ずさもうとしたその時、馬は彼女を振り落として走り去る。その先には、カーラジオから流れる曲にハミングしていたゴールデン・ハリス。林から飛び出した馬は、彼の運転するポルシェに激突した。

『Ⅱ』

ニューヨークのミッドタウンにある構想アパートメント・ハウスの屋上のへりに、ひとりの美しい女が立っていた。男が日光浴をするために屋上に出てきて、彼女の姿を目にしたとき、女はまさにそこから飛び降りようとしているところだった。驚いて、彼女はへりから少し後ろに下がった。男は三十歳から三十五歳くらい、金髪だった。痩せていて、胴は長く、脚は細くて短かった。

 

は不器用に説得を試みるものの、女はそこから離れようとしない。男は目を閉じて女を思いとどまらせる方法をしばし考える。再び目を開けて女を見たとき、生と死のあいだにひとつの特別な空間が存在することに彼は気付いた。

 

ポストモダン文学】

 理性による啓蒙的な近代社会、制度、思想の一般化を批判し、現代社会に則した新しいあり方を模索した概念を《ポストモダニズム》と呼び、フランスの哲学者リオタールによって理論化されました。

 

 文学の分野では《ポストモダニズム》の明確な定義づけは無いようです。ただ、従来の秩序、明晰、無矛盾、普遍などの特徴に反して、無秩序、暗愚、不条理、普遍性への懐疑など、近代文学へのアンチテーゼを掲げたスタイルが一般的に《ポストモダン文学》と呼ばれます。

 

 本作の場合、Ⅰが理性に基づく《近代文学作品》だとすれば、Ⅱはそれとは対照的な視点で描かれた《ポストモダニズム作品》です。互いの特徴が誇張して描かれているところは、作者の遊び心さえも感じられます。

 

  人は誰しも成長の過程で思春期を迎えるように、文学にも逡巡する時代があった

 

 二つの物語のなかに登場する『生と死の境界に存在する特別な空間』は、作者が生涯を通じて追いかけたテーマだともいわれています。マーク・ストランドにとってはこのような本質的なテーマを追求することに比べると、むしろ《モダン》や《ポストモダン》といった概念は二次的なものに過ぎなかったようにも感じられます。

 

【犬の人生】(『犬の人生』より)

 マーク・ストランドは1964年のデビュー以降、詩人として華々しい活躍を続けて来ましたが、1980年代の10年間は詩作を中断しています。《私詩》のあり方に疑問を持ち、表現形式を模索していたとも言われています。

 

 今回はいよいよ表題作である『犬の人生』をご紹介します。作者が模索していたものが何であったのか、その一端を垣間見るような作品に仕上がっています。

 

《あらすじ》
は妻に言いたいことがあった。でもそれは問題を含んだ内容だったのでなかなか切りだせずにいた。彼はそれまでに何度も口の中で声を出さずに繰り返していたのだが、いよいよそれを切りだす潮時が訪れた。穏便に事はすまないかもしれないと、覚悟を決めた彼はついに真実を告白する。・・・彼女に出会う前、彼は犬であったということを。

 

『幸せな生活だった』

 グラヴァーは言った。「僕はコネティカットの大きな家に飼われていた。広い芝生の庭があって、その向こうには森があった。その辺の人たちはみんな犬を飼っていた。幸せな生活だったな」

 トレイシーは目を細めた。「それはどういうことなの、『幸せな生活だった』っていうのは?どうしてそんなのが『幸せな生活』だったの?」

 

は冗談のようなものを聞かされていると思い込んだ。しかし、夫は犬のコリーとして歩んだ人生を妻に理解されたいと望んだ。夫婦の会話は結局、最後までかみ合わない。すべてを語り終えた彼は悔恨の苦悶に沈むが、しばらくすると、自分が正しいことをしたという誇りを取り戻した。

 

アイデンティティの問題】

 精神分析家のエリクソンによれば、《アイデンティティ》は人間にとって必要不可欠なものです。それは「自分が他ならぬ自分として生き生きと存在し続けている」という意識であり、「所属するコミュニティと自分が同じ意識で結び付いている」という一体感です。この物語はそうした《アイデンティティ》を倒置することで詩的な世界観を作り出しています。

 

 犬として吠え、唸り、言葉にならない声で語っていた男のかつての《犬の人生》。それは犬としての生を歌った喜びの日々でした。しかし、人間の発する声は喜びを表すでもなく、苦痛を表すでもなく、妙な具合にねじれていて、彼には疎外感しか伝わってきません(※あくまでも犬目線に依る個人的見解です🐶)。こうして犬と人間の倒錯的な《アイデンティティ》の物語が生まれました。

 

 この作品が発表された当時は、東西冷戦下で核開発競争が激化した時代。迫りくる環境破壊に対して警鐘が鳴らされ始めた時期でもありました。しかし人々の多くは、こうした事実を非現実的に捉えてうわべだけの時間を謳歌していました。

 

 このような状況に対して、作者は人の発する声に自然との調和を取り戻したいと願います。あるいは、『人間であることへの怒り』をどのように表現すればよいのかと模索しました。それがこの作品の中心テーマであり、10年間の沈黙の理由の一つでもあったのではないでしょうか。

 

 マーク・ストランドの語り口はいつも意表を突いたものですが、常に的確に問題の核心を捕えています。この作品の世界観が心に気持ちよく響いたことを、作者の詩的なレトリックに倣って記しておきます。

 

  人は誰しも内なる野生を思い出し、夜空の月に向って美しい声音を響かせる