村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑤コンテスト】(『人生のちょっとした煩い』より)

 

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 グレイス・ペイリーは同時代を生きる男女の姿を独創的なスタイルで語る方法を模索して本作を含む3つの作品*1を書きあげました。そうした創作を通じて、彼女は「文学の耳」と「生活の耳」の両方を手に入れたと言います。二つの耳が聞き取る身近な生活(の文学的響き)が彼女の初期の作品の中核となります。

 

 さて、本作には若い男女のフレディーとドッティ―が登場します。彼らが惹かれ合い反発し合う一風変わった日常がフレディーの一人語りで描かれています。

 

『百人の名前当てコンテスト』

 イディッシュ語の新聞で行われる『ニュースになったユダヤ人』というコンテストに、いっしょに応募して欲しいとドッティーが持ち掛けてきた。1等賞は賞金5,000ドルとイスラエル旅行。二人は見事に優勝を果たすが、賞金の受取りと旅行の権利は彼女一人だけだった。

 

僕が夢を抱いて、せっせと仕事に励んでいるあいだ、ドッティーピサの斜塔を眺めたり、ゴンドラに乗ったりすることにちょこまかとお金を使っていた。ロンドンがすっかり気に入って、そこに少なくとも二週間は滞在したらしい。そのような次第で、彼女が手にした賞金はそっくり外国人の手に渡ってしまった。

 

 フレディーはドッティーが帰国するその日を無視することに決め込んだ。女友達と遊んだり、ビールを飲んだり、朝刊・夕刊を隅々まで読んで気を紛らわしたりするが、寂しい気持ちは消え去らない。そのあと何日も仕事を休んだあげく、気持ちを抑えきれなくなった彼は手紙を書いた。

 

【男の視点・女の視点】

 フレディーは女たらしのモラトリアム青年で、知識と文才を鼻にかける自惚れ屋。彼から見たドッティーは、世間の枠にはまった退屈で残念な娘。連絡を絶ったことで、彼女が『自責の念でのたうちまわっているはずだ』と彼は負け惜しみの妄想をしますが、彼女への想いを断ち切れません。

 

 作者はフレディーの視点に徹してこの物語を描き切りました。そのため、フレディーが送った手紙に対して、ドッティ―が何を思って百ドル札1枚と、革製の書類入れと、スライド映写機を送ってきたのか判然としません。それは男の私に分からないだけで、女性読者ならその真意を読み取れるのかもしれませんが・・・

 

 一方、フレディーが拙い征服欲から女性蔑視の態度を繰り返していることは明らかです。彼女を愛おしく思う気持ちが、ことさら理知的な思考や、調和を乱すような行動へと彼を駆り立てます。このカップルの心の距離が縮まる日は来るのでしょうか? いずれにせよ、複雑な恋愛の駆け引きがペイリー特有の鋭い感性で記述されています。

 

 さて、本作の背景にはフェミニズム的な問題意識も多少感じられます。1950年代の世相が若者たちの恋愛観にどのような影を落としていたのか。日々の生活を聞き取る彼女の耳は、しだいに社会問題を聞き取る鋭い耳へと変貌していきますが、それについてはまた別の機会に。

*1:三つのうちの残り二つは先に本ブログでご紹介した『さよなら、グッドラック』と『若くても若くなくても、女性というものは』

【④いちばん大きな声】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 グレイス・ペイリーは、ニューヨーク生まれブロンクス地区育ちのロシア系ユダヤ人です。ブロックスユダヤ人のコミュニティー地区で、ロシア語とイディッシュ語と英語が同じくらいの割合で話されていました。彼女自身強烈なアクセントの英語を話し、小説の文体にもその響きが色濃く反映されたといいます。ユダヤ人であることは、彼女が創作するうえで大きな意味を持ちました。

 

 本作はアメリカに移住してきたユダヤ人が、彼らにとって異教の祝い事であるクリスマスについて論争する話です。ある日シャーリーは、先生から大きな声をかわれてクリスマスの劇で進行役に抜擢されました。ところが厳格なユダヤ教のコミュニティーの人々はキリスト教の劇に出演することに反対します。

 

『異文化の信仰心』

二人はイディッシュ語で論争をした。それからロシア語とポーランド語のごたまぜに移った。次に私(シャーリー)に理解できたのは、父さんの言葉だった。「いずれにせよだね、あんたも認めなくちゃいけないよ。私たちがこのようにして、異文化の信仰心に触れさせてもらえたというのは、間違いなく良きことだったじゃないか」「まあ、そうですけどね」とミセス・コーンブラーは言った。

 

 アメリカに住むからにはそれを認める必要があると判断した彼らは、しぶしぶシャーリーの出演を認めました。その後も彼女のクリスマス劇での活躍を巡ってざわつく人々。そんな喧騒の夜に思い描いた祈りを彼女は今も忘れずにいます。

 

【おやすみなさい。静かにね】

 本作には信仰の垣根を越えて、すべての人と喜びを分かち合いたいと願う少女の純粋な気持ちが描かれています。ユダヤ人としてのアイデンティティを守りつつ、普遍的な価値観を希求する作者の姿勢が少女に反映されているのは間違いないでしょう。

 

 物語のラストは『おやすみなさい。おやすみなさい。静かにね』と眠るの前のお祈りの声を張り上げるシャーリーに『お前こそ静かにしなさい』と父親がたしなめるほほえましいシーン。2023年12月現在、戦闘を続けるイスラエルパレスチナの人々にそうした祈りが聞き届けられる日は来るのでしょうか? ふとそんな妄想が頭を過って切ない気持ちになりました。

 

 宗教的な観点から見れば、クリスマスはキリストの降臨を祝うキリスト教徒にとって重要な日であることは言うまでもありません。その一方で広く愛や慈善の精神が共有され、異なる信仰や異なる文化の人々が盛大に喜びを分かち合う文化的、商業的イベントとして捉えられています。私自身は単純にそういうものだと受け入れてきましたが、どうやらそれは寛容と非寛容を計るバロメーターにもなっているようです。

 

 シャーリーの父さんの言葉がなるほどと腑に落ちたので最後に引用しておきます。

 

「結局のところ、歴史は万人に教えを与えるものなんだ。私たちは本を読んで、これは異教の時代から受け継がれてきた祭日であるということを知る。蝋燭、明かり、ハヌーカ*1だってひとつの原型になっているんだ。クリスマスも、隅から隅まですっかりキリスト教徒の祭りってわけじゃない。だからもし連中が、クリスマスというのは身内だけのものだと思い込んでいるとしたら、それは排他的っていうより、ただ無知なだけなのさ。」

 

*1:ハヌーカキリスト教クリスマスとほぼ同じ時期に祝われるユダヤ教の行事。クリスマスプレゼントのように子供に「ハヌ—カ・プレゼント」を与えたり、クリスマスツリーに似た「ハヌーカ・ブッシュ」と呼ばれる常緑樹を飾ったりする

【③淡いピンクのロースト 】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 グレイス・ペイリーは作家活動以外にも公民権運動、フェミニズム運動、環境保護活動などの政治活動で知られています。ヴェトナム反戦運動では何度も逮捕されるうちに知名度を上げ、難解とされる彼女の作品もカリスマ的な人気を獲得していきます。

 

 さて、本作は別れた夫に電話をして子供をあずかってほしいと頼む女性アンナのお話です。お調子者のピーターは、別れた妻アンナを心配してすぐに助けにやってきました。

 

『誰が敵なのかしら』

「さ、行こう。君の新しい住まいを見てみたい。(中略)トランクのひとつやふたつ、運んであげられる。重いものならなんでもござれだ。運び込んだ分だけ、人生は豊かになる。そうだよな?子供はどこかに預けちゃおうぜ。なにも僕は君の敵じゃないんだからさ」「じゃあ誰が敵なのかしら?」と彼女は尋ねた。「だからさ、いちいちからむなって、アンナ。ほんとだよ。」

 

 ピーターは決して悪い人間ではないが、思慮の浅い極楽とんぼ。彼を見るアンナの態度はあくまでも冷ややかで、戯言を聞いているうちに彼女の目に映る男はただの『淡いピンクのロースト』と化していく。そんな流れを通じて軽い気持ちでSEXに興じるが・・・。

 

フェミニズム黎明期の女流文学】

 ピーターのダメンズぶりと一段高い位置からそれを見下ろすアンナ、という構図がコミカルに描かれています。かといってアンナが女性として高潔かと言えばそうでもありません。ピーターから不貞を非難されると、とっさに涙を流して詭弁を弄するあたりに彼女のダメ女ぶりが露呈します。

 

 本作が発表された1950年代は、フェミニズム第一世代と呼ばれる黎明期。文学においては「ファム・ファタール*1」と呼ばれるステレオタイプな女性像が依然としてもてはやされていました。本作のようにガールズ・トークさながらのゴシップを文学に持ち込むことは、当時としては異例なことであったと思われます。

 

 本作のように、賢さも愚かさも併せ持つ女性が自由に「声」を発することが、グレイス・ペイリーの創作の原点にありました。フェミニズム運動はこのあと様々な紆余曲折を経ていきますが、彼女の理念はその黎明期から近年に至るまで一貫しているように思えます。それにしても臆面もなく男を『淡いピンクのロースト』と表現するところに、彼女のカリスマ性の兆しが感じられます(笑)

*1:ファム・ファタール妖艶かつ魅惑的な容姿や性格で、男を意のままに操る魔性の女性像。

【プレイバック】

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 本書はレイモンド・チャンドラーが描く《私立探偵マーロウ・シリーズ》の七作目にして遺作となった作品です。かつて角川映画『野生の証明』のキャッチ・コピー『タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない』が話題になりましたが、その元ネタとなったのが本書に登場する私立探偵マーロウの決め台詞です。

 

《あらすじ》
立探偵フィリップ・マーロウは、弁護士のアムニーなる人物から、特急列車から降りてくる女を尾行せよとの依頼を受けた。その女はエレナー・キング、またの名をベティー・メイフィールド。マーロウは彼女が恐喝されていることを知る。恐喝男との危険なファイト、エレナ―とのロマンス、恐喝男の変死事件とその死体の消滅。それは筋書きのない追跡劇のように思われたが・・・

 

『君はただのおとりに過ぎなかった』

「もちろん娘は列車の中で見張られていた。君が相手にしているのは間抜けの集団じゃないんだ。君はただのおとりに過ぎなかった。彼女に共犯者がいるかどうかを見定めるためのおとりだった。君の評判からして―――実際にそのとおりだったが―――君はきっと派手に振舞って、相手に自分の存在を気づかせるに違いないと踏んだのだ。」

 

の分からない仕掛けのカモとして利用されたマーロウは依頼契約を打ち切り、ロサンジェルスを離れてオーシャンサイドに向けて車を走らせる。彼の内なる声は依頼のことなど忘れて、家でおとなしくしてろと告げている。たとえ真相を追求したとしても報酬さえ見込めない。・・・しかし彼は、尾行対象のエレナ―を新たな依頼者に据えて再び現場に復帰した。

 

【謎を秘めた作品】

 チャンドラーの創作の拠点ははロサンゼルスです。妻のシシイは慢性気管支炎を抱えていて、彼は家事の合間に作品を執筆していました。1954年にシシイが亡くなると、彼は酒に溺れ、自殺未遂をし、多くの女性に求婚するなど常軌を逸した行動をとるようになります。執筆活動も苦戦しますが、1958年に最後の作品である本書をなんとか発表することができました。

 

 本書は謎の多い作品です。本筋とは関係のないプロットも散見されて、評価も芳しくなかったようです。しかしながら本書に描写された架空の町エスメラルダには、チャンドラーが暮らした町サン・ディエゴの景色が克明に再現しています。もしかしたら、そうした寄り道の数々には、彼の個人的な思い出が閉じ込められているのかもしれません。

 

 村上春樹の初期の作品群には本書のほぼ全てのプロットが、それと分かる人には分かるよう借用されています。彼はチャンドラー作品へのリスペクトを公言していて、やはり本筋と無関係な場面で引用するという《チャンドリアンの正統(?)》を守っています。また、実際に暮らしたり、足を運んで目にした景色を物語に取り込むという手法も忠実に継承しています。

 

 さて結論として、本書はチャンドラー初心者🔰にはおすすめできません。加えて結末が拍子抜けだの、つめが甘いだのぬかすやつらはお断り⛔。謎を謎のまま突き放す乾いた文体に、成熟した男の理想像を求めつづける独自の世界観! 軟弱者を寄せつけない、顎の強さを要する本格派!! これぞハードボイルドの神髄!!!

 

【②若くても、若くなくても、女性というものは】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 グレイス・ペイリーは子育ての合間に短編小説を書き、いろんな雑誌に送りました。しかし、当初はアマチュア主婦の書いた習作とみなされ、ことごとく掲載は拒否されたといいます。たまたまある編集者の目にとまり、37歳の新人作家のしかも雑誌に一度も掲載されたことのない処女短編集という異例ずくめで刊行されたのが本書です。

 

 本作『若くても、若くなくても~』の語り手は、おませな13歳の少女ジョセフィーンです。祖母は暴力的な夫の下で子供たちを育て上げ、母は軟弱な夫に逃げられながら娘2人を養ってきました。ある日、祖母と母と娘が集う家に、歳の離れた母の妹リズが恋人のブラウニー伍長を連れて訪れます。家族が寝静まった夜、ジョセフィーンは伍長の寝床に忍び込みました。

 

『あれをしたい?』

「ブラウニー、どうしてほしいの?あれをしたい?」やれやれ!彼はベッドから飛び出して、肩のところからシーツをかぶり、うなった。「まったく、なんてことを……まったく」と彼は言った。「こんなことをしてたら、俺は逮捕されちまうよ。MPにとっつかまって、一生監獄暮らしだ」

 

 とかなんとか言いながら、結局のところジョセフィーンの誘惑に負けたブラウニー伍長は、リズと喧嘩した腹いせもあって彼女と結婚の約束を交わします。母は最初こそ猛烈に反対したものの、リズに紹介された海軍中尉との恋愛が盛り上がを見せるや、あっさりと二人の婚約を承諾しました。

 

【戦時下の異常事態】

 その後、ブラウニー伍長の梅毒罹患が発覚して二人の結婚は頓挫、母は前夫との離婚が成立しないにもかかわらず中尉と再婚するなど、はちゃめちゃな展開が続きます。タイトルの通り、女性たちのしたたかな生態が少女の視点でコミカルに描かれるのですが、それは表面的なこと。本質的には、戦時下という異常事態が作り出す兵士と女性たちの一過的な連帯とモラルのゆるんだ社会への風刺が漂います。

 

 このあとに登場する作品も、キッチン・テーブルで主婦が書き留めた身のまわりの出来事という体裁で描かれます。易しい語り口でありながら、多義的なイメージが増殖する技法は、太古から培われてきた民族的伝統のようなものとも。いずれにしても、決してすらすらと読める内容ではないので、多くの雑誌が彼女の才能を見逃したのもうなずけるような気がするのです。

 

 当ブログでは複数の作品を俯瞰しながら、難解な作品の意図に迫りたいと考えています。旧世界からやってきたグレイス・ペイリーの歯ごたえある残り8作品を(時折ブレークタイムを挟みながら)ご紹介していきますので、引き続きよろしくお願いします。

 

【①さよなら、グッドラック】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 今回からアメリカ文学界のカリスマ的存在グレイス・ペイリーの作品を取り上げていきます。本ブログでは、過去に彼女の短編集『最後の瞬間のすごく大きな変化』をご紹介しましたが、アメリカでの刊行は本書の方が先で、彼女にとって初めての作品集でもあります。

 

 本書は批評家からの評価が高く、この一冊で彼女は名声を確立しています。後に社会活動家としても名を馳せるのですが、本書に収められた作品群にはまだ社会派傾向は影を潜め、自由でのびのびと創作を楽しんでいる雰囲気が感じられます。

 

 ご紹介する『さよなら、グッドラック』は、時代に先んじた女性の一代記です。ロシアから移民してきたユダヤ人たちのニューヨークにおける当時の生活ぶりが鮮やかに描かれていて、その造形には作者自身の生い立ちの影も感じられます。

 

『普通ではない人生』

 語り手のロージー伯母さんは、姪に彼女が辿ってきた半生を語って聞かせています。若いころから肥満体型で、さばけた物言いをし、親族からは変わり者扱いされてきた彼女。彼女はある日地味な事務仕事を放りだし、ユダヤ系の劇場のチケット売りの職につくと、持ち前の開放的な性格を生かしながら劇団の俳優たちと勝手気ままな交流を重ね始めます。ロージーの行く末を案じた家族たちは、生真面目な義弟の弟のルーベンを彼女に引き合わせますが・・・

 

「ロージー、僕は君に自由で幸福な、新しく大きな、そして普通ではない人生をさしあげよう」。どうやって?「君と僕とで力をあわせて、パレスチナの砂漠の砂を手に取り、そこに新しい築き上げるんだ。それは我々ユダヤ人のための、明日の土地なんだ」「ははは、ルーベン。じゃあ明日になったらそこに行くわ」

 

 彼女はそんな縁談のさそいなどまっぴらごめん。その席上で、当時盛んに進められていたイスラエルへの入植に誘われますが、ロージーはそれを断るだけでなく、あっけらかんとシオニズムを一蹴していて痛快です。自由で幸福な人生を、彼女は劇場のなかに求めました。

 

 しかし、やがて劇団は解散し、劇場もなくなり、残された彼女は孤独な太っちょの五十女に成り果てます。女であるにもかかわらず身の程知らずな夢を追ったことを本作は戒めているのでしょうか? どうやらそれは違うようです。話の結末では、彼女はかつての人気俳優とのよりを戻し、今や悠々自適のホテル暮らしというお気楽ぶり。それをどう解釈するかは読み手の判断にゆだねられます。

 

【20世紀を代表する女流作家】

 彼女の作品は、ロシア移民のユダヤ人が抱える日々の哀歓を描いたものに始まり、フェミニズムや人生の普遍的価値を追求するなかで、20世紀を代表する女流作家といわれるまでになります。本書に収められた作品群はそうした大作家の道への端緒となるもので、創作を自由に楽しむ雰囲気の中、時に鋭い切り口も垣間見せ、バラエティ豊かなラインナップになっています。

 

 以下にグレイス・ペイリーの表彰と受賞歴を、ウィキペディアから一部抜粋して掲載します。

1969年にオー・ヘンリー賞を受賞。1980年にアメリカ芸術文学アカデミーに選出。さらにリー短編賞(1993年)、PEN/Malamud Awardの優秀短編賞(1994年)を受賞。1994年にピューリッツァー賞、全米図書賞の最終候補となる。1998年にはダートマス大学から名誉学位を授与。2003年にロバート・クリーリー賞を受賞。文学賞であるグレース・ペイリー賞は、彼女の業績にちなんで贈呈される。(Wikipediaより)

【色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年】

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 村上作品の特徴は、日常を飛び越えて幻想的な世界に引き込む「つかみ」の強さにあります。読者はその不思議な読書体験を通じて、あたかも日常の矛盾や不条理さえもが解き明かされたような気分を味わうことができるでしょう。

 

 今回ご紹介する作品にも《共感覚*1》に関する不思議なエピソードが添えられています。それを真実とみなすこともできますし、文学的なメタファーと捉えることもできますが、いずれにしても読み手の感度の違いによってさまざまに解釈が広がる作品に仕上がっています。

 

『死者として生きる』

 主人公の多崎つくるは高校時代に4人の友人と常に行動を共にしていた。彼は一人故郷を離れて東京の工科大学に進んだが、大学二年生の時、何の前触れもなくグループから追放されてしまう。心の傷から離れるために、つくるは過去も未来も削ぎ落したような日々を送り続けた。

 

 彼はその時期を夢遊病者として、あるいは自分が死んでいることに気づいていない死者として生きた。日が昇ると目覚め、歯を磨き、手近にある服を身につけ、電車に乗って大学に行き、クラスでノートを取った。強風に襲われた人が街灯にしがみつくみたいに、彼はただ目の前にあるタイムテーブルに従って動いた。

 

 絶望の淵に在ることは『自分が死んでいることにまだ気づいていない死者として』生きることだと述べられています。しかし、目の前の局所的な時間にしがみつく姿は、傍目には一般的な日常のあり方と変わりないものでもありました。

 

つくるは東京で規則正しく、物静かに生活を送った。国を追われた亡命者が異郷で、周囲に波風を立てないように、面倒を起こさないように、滞在許可書を取り上げられないように、注意深く暮らすみたいに。彼はいわば自らの人生からの亡命者としてそこに生きていた。

 

 つくるは沙羅という女性と出会い、友人たちの居場所を探してもらい、グループから追放された理由を聞くために「巡礼の旅」に出ました。その旅のあとで、上記のように『亡命者』のように暮らした頽落的な日常について振り返っています。

 

 そもそも、人は絶望の淵にいる時に限らず、多かれ少なかれ局所的な時間にしがみつき、大衆に紛れ込んで匿名的で亡命者のような在り方をしているのではないでしょうか。この物語が描こうとしているのは、ごく普通の暮しを送る私たちが、ほんのわずかな手違いによって人生の落とし穴に落ち込み、あたふたしている光景なのかもしれません。

 

【本物の人生にようこそ】

 物語は辛い過去を切り捨てるのではなく、自分を作り支えるものとして捉え直し、さらに自らの運命として背負おうとする、つくるの心の軌跡を描いています。それを『歴史は消すことも、作りかえることもできない』『それはあなたという存在を殺すのと同じ』という沙羅のセリフで言い表されています。

 

 ところで、本作には灰田という男が語る不思議なエピソードが挿入されています。それは《共感覚》の一種と思われる『人がそれぞれもつオーラの色が見える能力』についての話です。そしてその能力は『自分の死を引き受けることと引き替えに与えられる』とされます。初読の時にはあまりの突拍子のなさに加えて、その意図が理解できないために正直戸惑いました。

 

 詳しくは書きませんが、このエピソードは物語終盤における、つくるがグループ内で発揮した特殊な能力への気づきと覚醒、沙羅の愛と引き替えの《死への先駆*2》といった場面にリンクしています。『もし明日、沙羅がおれを選ばなかったなら、おれは本当に死んでしまうだろう』といった心境にありながら、胸の痛みや息苦しさでさえ愛おしさの一部に感じられる。『本物の人生にようこそ』という作中のアカの印象的なセリフが思い浮かびました。

 

 本書を読んで感じたことを言葉にするのは簡単なことではありません。ただ、平凡な人生を送ってきた私が捨てた過去の苦い歴史を思い返してみたり、自分自身が気付かない特殊な能力があるのかも♡、なんて考えてみたりしました。その能力に気付いてしまった時に、怖ろしい死が迫って来るのだけは避けたいところですが(-_-;)

*1:共感覚:例えば、文字に色を感じたり、音に色を感じたり、味や匂いに、色や形を感じたりするような、ある1つの刺激に対して、通常の感覚だけでなく 異なる種類の感覚も自動的に生じる知覚現象

*2:死への先駆:己の死へと先駆け、己の死へと向き合うことが本来的な実存の可能性であるというハイデガーの説