村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑨そのとき私たちはみんな、一匹の猿になってしまった】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 本作はニューヨークの下町で毒ガスを開発するオタク青年を主人公にした物語です。時代の証言者グレイス・ペイリーは、若者たちの間に生まれた狂気を書き留めます。

 

 その青年は父親の経営するペットショップで働くぱっとしない男でした。しかし、都市伝説や陰謀論を語らせれば、誰もが涙を流して傾聴するほどのカリスマ性を発揮します。そんな彼が期待を背負って最初に完成させたのは、とりたてて独創性のない「ゴキブリ隔離器」。彼と仲間たちは、次なる装置の開発に向けて実験を開始します。

 

『戦争減衰器』

「これはゴキブリ隔離器によって学んだことだ。平和を望み、五感の警告に耳を傾けるものだけが、幾世代もの敗北を通して生き残ることになる。核酸の中に惨めたらしい毒性を抱え込んだシラミの遺伝形質なんて、いったいどこの誰が必要としているんだ?」

 

 『ゴキブリ隔離器』の理念を引き継いで考案したという『戦争減衰器』。それは毒にも薬にもならない悪臭を発生させて、近所の住民を慌てふためかす装置だった。しかしその実験に想定外の事態が起こり、彼が世話をしていたペットショップの動物たちを死滅させてしまいます。

 

【普通ではない精神の資質】

 この青年のように、都市伝説や陰謀論を語る人の話術には時折感服させられるものがありますが、うさん臭さはぬぐえません。また、「毒ガス」といえば「地下鉄サリン事件」を思い浮かべ、嫌悪感を抱かせます。この物語はそうした要注意人物の愚にもつかない成れの果てを描いているのでしょうか? ところが物語は予想外な方向に展開します。

 

 作品の意味について問われたペイリーは『ああいうタイプの青年は実際にいたんです。当時でも、精神に異常をきたす若い人たちはいました』と答えています。村上春樹はあとがきで、『そのような狂気は(あるいはもっと広義に「普通ではない精神の資質」は)注意深く見渡せば、我々のまわりに比較的簡単に見いだせるものなのかもしれない。』と述べています。

 

 物語の後半は、この青年が収容された精神病棟の暮らしぶりが描かれます。彼は周りの人々の無理解に耐え、自分の中の『普通ではない精神の資質』と対峙しながら黙々と日々を送っています。唯一の感情の発露として動物たちの飼育に愛情を注ぎますが、やがて彼の中の動物倫理を目覚めさせてしまい、自らその役割を辞退してしまいます。

 

 読み始めからは想像もつかない、なんともやるせない結末でした。この青年のような異能の人々が満足に暮らしていくにはどうすればよいのでしょうか? その答えは見つかりませんが、孤軍奮闘する彼の姿にエールを送りたい気持ちになります。それにしても、ペイリーの小説はいつも予測不可能な展開を見せてくれます。あるいは、彼女の中の『普通ではない精神の資質』がこのような物語を書かせるのかもしれませんね。

 

【ドライブ・マイ・カー】(『女のいない男たち』より)

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 短編集『女のいない男たち』の冒頭に収録されている作品をご紹介します。本作は濱口竜介監督によって映画化され、アカデミー賞国際長編映画賞を受賞しました。

 

『口数の少ないドライバー』

 通常であれば家福は女性の運転する車に乗ることを好みません。臆病さやその反動の大胆さ、緊張感といった彼女たちの気配を苦手にしていたからです。運転免許停止になった家福に紹介された渡利みさきの運転にはそうしたものが感じられないことから、愛車の代行運転を彼女に任せることにしました。

 

 ぶっきらぼうで、口数の少ない彼女の運転する車の助手席に座るようになって以来、なぜか家福は亡くなった妻のことをよく考えるようになります。家福と妻は俳優業を生業にしていて、仕事は順調で経済的にも安定していました。表面的には二人とも満ち足りた波乱のない結婚生活を過ごしてきたものの、時折妻は彼以外の男と寝ていました。

 

『口に出来なかったこと』

なぜ他の男たちと寝たりしたのか、その理由を妻が生きているときに思い切って聞いておけばよかった。彼はよくそう考える。実際にその質問をもう少しで口にしかけたこともあった。君はいったい彼らに何を求めていたんだ? 僕にいったい何が足りなかったんだ? 彼女が亡くなる数か月前のことだ。しかし激しい苦痛に苛まれながら死と戦っている妻に向かって、そんなことはやはり口にできなかった。

 

 妻が亡くなったあと、彼女のセックス・フレンドのひとりであった俳優の高槻に、家福は友だちを装って近づきます。それは妻がその男と寝た理由を知るためであり、男を懲らしめるためでもありました。ところが、憎むべき高槻から不意に発せられた曇りなき純真なる言葉は、家福の息苦しい気持ちを鎮めることになりました。

 

『僕らはみんな演技をする』

 時に私たちは、生身の人間が抱え持つ宿痾に傷つけられます。愛すべき人、信頼すべき人の背信行為は耐え難いものですが、その心に負った深い傷から立ち直るにはどうすれば良いのでしょうか。家福のようにその人の実像をとことん追い求めるか? 高槻の言うように自身の心を掘り下げて人の世の摂理を見つめるか? あるいは渡利みさきの助言に従い、すべては人の病のなせる業と諦めるか?

 

「そして僕らはみんな演技をする」と家福は言った。「そういうことだと思います。多かれ少なかれ」家福は革のシートに深く身を沈め、目を閉じて神経をひとつに集中し、彼女がおこなうシフトチェンジのタイミングを感じ取ろと努めた。しかしやはりそれは不可能だった。すべてはあまりに滑らかで、秘密めいていた。

 

 ものごとの事実と本質が乖離する世の中を、誰もが与えられた役を演じながら生きています。互いの演技の裏に隠された秘密が、憎しみの暗闇なのか、曇りなき純真なのか、知る由もなく・・・

 

 さて、本作を含む短編集『女のいない男たち』は、題名の通りのコンセプトで構成されています。深く愛した一人の女性がどこかに去ってしまったとき、どのようにして男たちはそれを理解し、悲しみ、傷を癒し、そして立ち直ることができるかといったモチーフが様々なシチュエーションで取り上げられます。不定期になりますが、次回以降ご紹介していきたいと思います。

 

 当ブログでは『映画:ドライブ・マイ・カー』のご紹介も行っています。よろしければ読み比べてみてください。

 


【⑧長くて幸福な人生から取った、二つの短くて悲しい物語】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 本作はグレイス・ペイリーの「フェイス・シリーズ」の第一作です。主人公のフェイスにはリチャードとトントという二人の息子がいて、彼女のパートナーは元の夫、新しい夫、ボーイフレンドなどその時々のシチュエーションで入れ替わります。記念すべき初回は2話構成。主要なキャラクターが登場し、その後に続くシリーズのプロローグ的作品になっています。

 

《第一話:中古品の子供たちを育てる人々》

 元の夫と新しい夫が揃って食卓に座り、卵料理が不味いと非難しています。フェイスが「じゃあ、自分で作りなさいよ」と言っても、二人はやれやれという感じで取り合わない。元の夫は、身持ちの悪いフェイスに「しっかり身を固めておいが方がいいぜ」などと言いたい放題。勝手なことをそれぞれ口にした後で、男たちは仲良く肩を並べて出て行いきます。

 

ふだんの私は、自らの運命におとなしく従って生きていくだけだ。それは要するに、命の有効期限が切れるまで、明るく笑いながら、男に仕えて生きていくことなのだが。

 

《第二話:少年期の問題》

 ボーイフレンドのクリフォードが、「君は子育てにしくじった」と批判したとき、彼女はついにぶち切れます。ガラスの灰皿を切り投げつけると、クリフォードの耳たぶは切り裂かれて血まみれに。普段は粗暴な男たちの言動をやんわりとやりすごすフェイスですが、一度怒りはじめるや手の付けられない修羅場が出現します。

 

「この間抜け、そんなこと、口が裂けても女に向かって言うべきじゃない。血を拭きなさいよ、馬鹿たれ。失血死しちゃうわよ」

 

フェミニズム勃興前夜】

 ここに描かれているのは1950年代のアメリカの景色です。戦火の記憶も生々しく、人種や階級の差別が堂々とまかり通る時代。肝の据わったフェイスですが、怒りを爆発させては子供たちとの温かな絆に鎮められるというガサツで不安定な日々を送っています。

 

 現代の視点で読むと、彼女の苛立ちの原因が男性優位の性別役割から来ていることは火を見ることよりも明らかです。しかし、当時の人々がジェンダーが差別であるという認識に辿り着くには、もう少し時代が経過する必要があります。作家グレイス・ペイリーはそんな時代の過渡期を見届けた証言者としてこの「フェイス・シリーズ」を記述していきます。

 

 さて、短編集の8作目にしてようやく社会の不公正に向かって闘いを挑むペイリーらしいヒロインが登場しました。その意味で、本作がこの短編集のピークを為す作品であることは間違いありません。高まる気持ちを落ち着けるためにも、次回は別の村上作品のご紹介を挟みたいと思います。

 

【⑦変更する事のできない直径】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 本作は個性的なグレイス・ペイリーの作品のなかでも、取り分けぶっとんだ内容になっています。不条理な小説世界に込められた寓意を探って行きたいと思います。

 

 エアコン設置業者のチャールズは、仕事で訪れた家で未成年のシンディーという魅力的な女の子に出会います。二人は親子ほどの年齢差にもかかわらず恋仲となり、肉体関係を持ってしまいました。

 

『わかった、わかった』

 シンディーの父親はその事実を知ると激昂し、チャールズを刑事告訴します。法廷の場でのシンディーはチャールズの無罪を願い、自分が被害者ではないことをけなげにアピールしてみせますが、その一方でチャールズは覚悟を決めていました。

 

それに加えて私はーーー超然と、そしてまた腹の底からーーー自分の運命はもう決せられたのだと覚悟を決めていた。わかった、わかった、と私は世界に向かって言った。そして自分の内側に目を向け、投獄されることへの不安を克服した。

 

 被告チャーリーが処罰に異議を唱えていないにもかかわらず、無意味な法廷やり取りが延々と続きます。シンディーから発せられた被告無罪の証言により、審議は暗礁に乗り上げてしまいました。うわべを繕うだけの調停案の行方を、冷めた目で見守るチャーリー。果たしてその結末はいかに?

 

【モラルの審理】

 語り手であり主人公のチャーリーは、衝動的に若い女性に手を出してしまう物として描かれます。彼の軽率な行動は、社会の慣習に適合しないと見なされて裁判にかけられますが、告訴する側も弁護する側も、共にモラルを欠いているために判決に至ることができません。

 

 束の間の休廷のあいだ、チャーリーは「自分が生命という大きな円周上の接線であり、円の中心に触れることも近づくこともできない」と考えます。生の摂理から遠ざけられているのはチャーリーばかりでなく、世間体に縛られて二人の結婚を容認する父親もまた同じ。被告と原告の二人の心根を隔てる壁は、案外薄っぺらなものかもしれません。

 

 その一方で、本作は裁判のあり方そのものを皮肉っています。さまざまな感情や主観を持つ人物が関与する裁判は、事の真実を見極める場面では空転し、滑稽ともいえる状況に陥る始末。この裁判に限って言えば、モラルの審理は国家でも法律でも慣習でもなく、哲学や文学による解釈に分があると言えそうです。

 

 本書には、カミュの『異邦人』のような世界観が、短い文章のなかにギュッと押し込まれていて、そこからグレイス・ペイリーの奇抜で珍妙な登場人物たちが自由に動き回る様子を楽しむことが出来ます。本短編集の中でも一押しの作品ではないでしょうか。

 

【ズーイ】(『フラニーとズーイ』より)

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 先の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』で社会の欺瞞に対して「ノー」を突き付けたJ.D.サリンジャーは、本書『フラニーとズーイ』では、若者たちの未来に向けて渾身の「イエス」を絞り出します。世代を超えて読み継がれるイノセント・ストーリーの後編をご紹介します。

 

 『ズーイ』のパートは、先の出来事から二日経過したグラス家の朝から始まります。フラニーは週末を恋人と過ごすことなく実家に戻り、そのまま寝込んでいました。心配した母親は五男のズーイに助けを求めますが、彼が語って聞かせる神学論はかえって彼女を混乱に陥らせてしまいます。

 

 例えば、フラニーが唱え続けるお祈りが知恵や平穏の恩恵を目的としているなら、その姿は物質的な貪りを求める俗人と変わらないとズーイは批判しますが、フラニーは開き直って逆切れするばかり。

 

 さらにズーイは、自己中心的な人々に対するフラニーの憎しみに対し、人々の欠点に反発するのではなくその背景にある社会の歪みやエゴイズムに立ち向かうべきだと諭しますが、フラニーはふてくされてそっぽを向いたまま。

 

『神聖なるチキンスープ』

「たとえもし君が外に出て行って、この広い世界のどこかにいる導き手をーーーグルだか聖者だかそんなものをーーー探しあてて、その人物に正しいイエスの祈りの唱え方を教えてもらおうとしたって、それがいったい何の役に立つだろう?だいたいもし君がそういう資格を持つ聖人に出会ったとして、君はどうやってその相手を本物だと見分けるんだ?鼻の先に神聖なるチキンスープを差し出されても気がつかないっていうのに?」

 

 『神聖なるチキンスープ』とは、母親から差し出されたにもかかわらず、それを煙たがってフラニーが口にしない食事について揶揄したもの。自意識の問題に思い悩むあまり、自分の殻に閉じこもる彼女が、周囲の気遣いに感謝し、自分も他人も愛せるようになるにはどうすればよいのでしょうか?

 

『君に今できるただひとつのこと』

「君に今できるただひとつのことは、唯一の宗教的行為は、演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神のために演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神の俳優になることだ。それより美しいことがあるだろうか?」

 

 ズーイは、受話器越しに(必死の汗をびっしょりとかきながら)女優でもあったフラニーに、演劇の舞台に復帰するよう説得します。そして、どんなに醜くくて、愚かで、エゴにまみれて見えたとしても、そうした人々の心のなかの神性に向けて演じることが本当の意味ある行為だと語ります。電話が切れた後、フラニーは受話器を耳に当てたまま、放心した状態でダイヤルトーンの音を聴き続けます。

 

【呪縛からの解放】

 元はと言えばフラニーの精神的乱調は、兄たちによって刷り込まれた宗教観が原因でした。そのおかげで自分たちは『畸形人間』になってしまったとズーイは語ってますが、それは近年社会問題になった「マインド・コントロール」や「宗教2世問題」を想起させます。物語はこれについて、グラス家という特殊な家系のもとで起きたレアケースのように扱っていますが、今なら誰もがこれをリアルな問題として受け止めるのではないでしょうか。

 

 こうして考えてみると、本書のテーマを単なる《青年期の自意識》と軽々に決めつけることはできなくなりました。作者は「毒を持って毒を制す」ように、「スピリチュアルな呪縛からの解放をスピリチュアルな思想を介して成す」という手法で見事にこの難題を解決させています。謎に包まれた作家サリンジャーが醸し出すオーラがそれに一役買っていることは言うまでもありません。

 

 さて、今年も新年の始まりにサリンジャー作品をご紹介しました。ここを乗り切ればどんな難解本が現れても恐れるに足らず! というわけで、このブログは村上春樹の小説、翻訳、紀行文、エッセー、映画、舞台、漫画を全てご紹介するという試みに取り組んでいます。4年目に突入した本年もどうぞよろしくお願いします<(_ _)>

 

【フラニー】(『フラニーとズーイ』より)

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 『フラニーとズーイ』は、J.D.サリンジャーのライフワークであるグラス家の七人兄弟姉妹の物語のひとつです。末娘のフラニーと五男のズーイに焦点をあて、若者たちが自己を探求し、社会とのかかわりについて向き合う姿が描かれていています。

 

 最初のパート『フラニー』は、恋人のレーンが駅のプラットフォームでフラニーの到着を待っている場面から始まります。二人は大学のフットボールの試合を観戦して週末を一緒に過ごす予定でした。しかしフラニーは、このところ何か固執した考えに取り付かれていて、出会った時から二人の間には感情的なすれ違いが生じています。

 

『ちっぽけなこきおろし屋』

 例えば、レーンは学部でA評価がついた論文をフラニーに読んでもらいたがるのですが、彼女は彼が「セクション・マン」のように語っていると言ってダメ出しをします。「セクション・マン」とはゼミの教授の臨時代行で、彼女に言わせれば「うぬぼれの強いちっぽけなこきおろし屋」です。

 

 フラニーはすぐさま暴言を吐いたことを謝罪して、実は専攻している英文学をやめる気でいる事を打ち明けました。レーンは彼女の英文科にこの国でもっとも優れた二人の詩人がいると言って引きとめますが、彼女は「彼らは本物の詩人ではない」と言って再び反論を繰り広げます。

 

「もしあなたが詩人であれば、あなたは何か美しいことをしなくちゃならない。それを書き終えた時点で、あなたは何か美しいものを残していかなくちゃならない。そういうこと。でもあなたがさっき名前をあげた人たちは、そういう美しいものを何ひとつ、かけらも残してはいかない。」

 

 彼女のご高説は真っ当なものに聞こえますが、それを語る姿は「うぬぼれの強いちっぽけなこきおろし屋」そのものです。崇高な知恵や平穏を求めながら、利己的な心根を手放すことが出来ないという自己矛盾が押し寄せてきて、遂にフラニーはその場で気を失ってしまいます。

 

叙事詩の第一幕】

 フラニーは大学教育に幻滅しただけでなく、誰彼となくそれを口にせずにはいられない自分に苛立っていました。そんな心の拠り所として「ナム・アミダ・ブツ」に象徴される東洋的な宗教哲学に傾倒していきます。偽りの順応性や破壊性、エゴを脱して精神を浄化するために、意識を取り戻した後も、彼女はお祈りの言葉を唱え続けます。

 

 彼女がいったいどこまで「他力本願」の教義を理解しているのか? 本作を読んでもその辺りは定かではありません。昨年末のブログで私は「物語の力」について述べましたが、フラニーがどっぷりとはまった宗教哲学は「物語の力」の最たるものでしょう。しかし、彼女はその圧倒的な力に感化された末に、独善的な臭気を放ち始めています。こうした負の事態を引き起した原因は何なのでしょうか?

 

 そもそも、本作『フラニー』が発表された時にも、作品の解釈をめぐって様々な憶測が飛び交っています。当時はまだカルト被害が深刻化しておらず、フラニーの心理的呪縛は個人的な事情と見なされました。また、フラニーとレーンの性的関係を匂わせる文章から、精神的乱調の原因をマタニティーブルーだとする説も現れました。しかし、続くパートの『ズーイ』が発表されたことで、本作がグラス家を巡る叙事詩の第一幕であり、青年期の自意識という普遍的テーマが浮上してきます。

 

 そういえば、村上春樹の短編小説も、冒頭の作品が後に続く作品や長編小説のプロローグになっていることがよくあります。もしかしてサリンジャーの手法に倣ったのでしょうか? また、本書はスピリチュアリズムアイデンティティ、そして第二次大戦後のイデオロギーという裏テーマを比喩的に描いているとも言われています。どこまでそうした物語の背後に迫れるか分かりませんが、ともかく続けて後編の『ズーイ』をご紹介したいと思います。

 

【⑥人生への関心】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 本作は以前このブログでご紹介した『道のり(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)』の別バージョンです。前作でミセス・ラフタリーから語られたのとほぼ同じ内容がジニーの側から語られています。

 

 簡単におさらいを。ミセス・ラフタリーの息子ジョンは妻子を持つ身でありながら、夫に去られ4人の子供を抱えて生活に困窮する幼なじみのジニーと深い仲になってしました。ジョンとジニーの会話からこの短編集のタイトル『人生のちょっとした煩い』がつけられているのですが、短編集を代表するだけでなく、作者が追い続けるテーマが伺えます。

 

『人生のちょっとした煩(わずら)い』

 ある日ジニーは、テレビ番組『リッチになろう(経済的に困っている人々をスタジオに招き、クイズの正解に応じて現金をプレゼントする番組)』に出演しようと思い立ち、自分が抱えるトラブル・リストを作成する。しかし、それを見たジョンは彼女にこう言い放った。

 

「君だってあの番組を見たことはあるだろう?ここに書かれているのは、つまり『人生のちょっとした煩い』みたいなものでしかない。でもあの人たちはね、それこそとことん苦しんでいるんだよ」、彼はそう言って、私のリストに向って、小馬鹿にしたようにひらひらと手を振った。

 

 ジニーの番組出演は必ずしもジョンの援助の価値を損なうものではないのに、そこに潜む下心へのうしろめたさからか彼は彼女を引き留めにかかった。ひょっとすると、ジニーは番組に出演する気などはじめから無かったのかも? いずれにせよ、ジョンからの生活支援を一層確かなものにするために、このトラブル・リストが役立つ結果となった。

 

【物語の力】

 ペイリーのタッチが辛辣なためか、物語に登場する人々の生きざまは、どれもこれもおぼつかないものに見えます。生活に余裕なく、将来の展望なく、目先の利害に流される彼らが抱えるトラブルを『人生のちょっとした煩い』と言っていいのか分かりませんが、それはとりもなおさず私たちの日々の現実を率直に映し出しています。

 

 物語の終盤には、ほのぼのとしたエピソード(実は夢オチ)も添えられます。私は彼女の小説を読んでいると、自分自身の記憶と重なる宿命的な結びつきみたいなものを感じとることがあります。傍から見れば『深読みのちょっとした勘違い』でしかないと一笑に付されるのかもしれませんが。

 

 ただ、誤読や錯覚を伴いながらも、登場人物と同じ心境を重ねる記憶の刷り込みによって、過去のトラウマや、生き辛さのバイアスを書き換えてきたのも事実です。私にとって《物語の力》とはそういうものであり、この先もその恩恵に浴していきたいと思います。ブログを通じて同じ思いを感じてもらえたら嬉しいです。

 

 さて、2023年も残すところあとわずかとなりました。今年の収穫と言えば、ブログを書き上げるスピードが速くなり、たまにまともな文章が書けるようになってきたこと(^^;) そんなこんなで今年の投稿はこれにて終了します。一足お先にメリークリスマス!🎄 そして良いお年を!!🎍