本作は話題の長編『ノルウェイの森』の起点となった作品です。これまでの作風から一転したリアリズム調の文体に鮮烈な印象を受けた読者は多いのではないでしょうか。
《あらすじ》
- 文京区で寮生活をおくる「僕」は中央線の車内で高校時代の友人の恋人と偶然再会する。
- 友人と恋人と「僕」は親密な交友関係にあったのだが、高校二年のある日その友人は自殺した。
- 再会後に「僕」と彼女は付き合い始めるが、二十歳の彼女の誕生日の出来事以来音沙汰がなくなる。
- しばらく経って届いた手紙には、大学を休学し京都の山中の療養所に落ち着く旨が書かれていた。
【透き通っていく彼女】
「僕」と亡くなった友人の恋人は月に一、二度出会い、会話もなくひたすら歩くという奇妙な関係です。それでも秋が終わり冬へと向かうなかで、彼女は時々「僕」の腕に体を寄せてくるようになるのですが・・・。
彼女の求めているのは僕の腕ではなく、誰かの腕だった。彼女の求めているのは僕の温もりではなく、誰かの温もりだった。少なくとも僕にはそんな風に思えた。彼女の目は前にも増して透明に感じられるようになった。
六月の彼女の二十歳の誕生日。その日彼女は珍しくよくしゃべりました。どれもとても長いうえに異常なくらい克明な話なのですが、ふと気がつくと彼女の話は途切れて沈黙が漂っていました。
彼女はなんとか話しつづけようとしたが、そこにはもう何もなかった。何かが損なわれてしまったのだ。彼女は唇を微かに開いたまま、ぼんやりと僕の目を見ていた。まるで不透明な膜をとおしたような、そんな視線だった。
その後、一週間経っても電話がかかってこないので、「僕」は正直な気持ちを込めた手紙を送ります。七月の始めに届いた短い返事には、大学生活を諦めて京都の山中の療養所生活に入ることが打ち明けられていました。
いつかもう一度、この不確実な世界のどこかであなたに会うことができたとしたら、その時にはもっといろんなことがきちんと話せるようになっているんじゃないかと思います。
【心を蝕んでいく観念】
さて、本作には彼女の異変の予兆から発症までの様子が克明に描かれていますが、その原因のひとつが高校時代の恋人の自殺です。主人公の「僕」もその死について深く考えないようにしていながらも、それは時が経つにつれて明確に形を成していきます。
「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」
ただしこれは、本作ではまだ十分に含意を伝えない一般論に留まっています。
【闇の中の微かな灯】
サリンジャーの『フラニーとズーイ』は、先に出版された『フラニー』が謎を残した終わり方をしたために、読者のみならず批評家からもまったく見当違いな読みと解釈が出回ってしまいました。後の続編『ズーイ』によって、フラニーの精神的乱調の原因がメランコリーや妊娠愁訴などではなく、青年期の自意識の葛藤にあったことが明らかとなります。
この『蛍』についても、「死は生の対極~」の概念が曖昧なためか、「ラストの蛍のシーンは意味不明で蛇足!」とか「スキャンダラスな恋愛の破局を描いた!?」といった当時の批評家の当惑気味なコメントが残されています。
今読み返すと、主人公の「僕」は闇の中で微かに光る蛍の灯に、死に取り込まれていく彼女の魂を重ね合わせていることが伝わってきます。それは恋愛というよりも、思春期という残酷な時代を共に戦い、傷つき、損なわれていく命の哀しみを描いています。
本作に続く長編『ノルウェイの森』では、主人公は闇に消えて行く魂を追って深い森の中へ入っていくのですが、それについてはまた別の機会に。