村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【はじめに・回転木馬のデッド・ヒート】「回転木馬のデッド・ヒート」より

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 ブログの投稿も40回を超えました。ボクなりのスタイルも見つけて楽しく続けているところです。最近、ブログの記録から初期の投稿へのアクセスが頻繁に行われていることを知りました。そこで久しぶりに見返してみたところ、誤字脱字に意味不明な言い回しのオンパレードで恥ずかしいことこの上ない!!気づいたところは出来るだけ校正していくつもりですが、なにしろ40回分ですから・・・。

 

 さて、気を取り直して本書の紹介に入ります。

 

 本書『回転木馬のデッド・ヒート』は、作者による序文と8つ短編で構成されています。全編リアリズムにこだわっていて、フィッツジェラルド的文体を試みたとも言われています。今回はそのような意図について言及した序文についてご紹介したいと思います。

 

『マテリアル(素材)とヴィーグル(いれもの)』

僕がここに収められた文章を〈スケッチ〉と呼ぶのは、それが小説でもノン・フィクションでもないからである。マテリアルはあくまでも事実であり、ヴィーグル(いれもの)はあくまでも小説である。もしそれぞれの話の中に何か奇妙な点や不自然な点があるとしたら、それは事実だからである。読みとおすのにそれほど我慢が必要なかったとすれば、それは小説だからである。

 

作者は事実に基づいた小説を提示すると宣言しています。彼の言う事実とは何でしょうか?そして彼の目指す小説とは何でしょうか?

 

我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。 

 

『メリー・ゴーラウンド』は、ボクたちが人生を通じてどこにも行けないという現代思想が行きついた無力感をなぞっています。ただ、その時々に生じた人々の想いを物語に留めることに、どんな意味があるというのでしょうか?

 

【物語とリアリティー

 現実に起こる予測不可能な事態に出会うと、ボクたちはリアリティーを感じます。そこに論理や解釈が加わると物語性が立ち上がります。この序文はリアリティーと物語の融合という、作者がこれから進むべきスタイルについて語っているように思われます。

 

 次回から8つの短編についてのボクなりの感想を綴っていきます。が、きちんと校正された完成形を求めることは最早あきらめました。おそらくこれを読んでくださる方々もそんなものを求めてはいないでしょう。ただ、今の自分の正直な言葉を書き留めることに集中したいと思います。