村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品を紹介します。

【カンガルー日和】「カンガルー日和」より

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短編集『カンガルー日和』は掌編を18編集めて構成されています。今回はその中から高校の現代国語教科書にも採用された表題作についてご紹介します。

 

【要旨】

  • 待ちに待った月曜日の朝、僕と彼女は動物園へと出かけた。
  • 柵のなかには三匹のカンガルーと生まれたばかりの一匹の赤ちゃん。
  • 二人はホットドッグを食べコーラを飲み、そしてカンガルーの柵をあとにした。

 

【月曜日の朝】

しかし何はともあれ、カンガルーを見るための朝はやってきた。

我々は朝の六時に目覚め、窓のカーテンを開け、それがカンガルー日和であることを一瞬のうちに確認した。我々は顔を洗い、食事を済ませ、猫に食事を与え、洗濯をし、日よけ帽をかぶって家を出た。 

 

カンガルーの赤ちゃんを見たいという彼女と、それに消極的ながら同調する僕の一日が乾いた言葉で記述されています。彼らの行動はどのような理由によるものでしょうか?

 

「でもね」と僕は抗議した。「たしかに君の言うとうりかもしれないけれど、僕はキリンのお産だって見たことないし、鯨が泳いでいるところだって見たことがない。なぜそれなのにカンガルーの赤ちゃんだけがいま問題になるのだろう」

「カンガルーの赤ちゃんだからよ」と彼女は言った。僕はあきらめて新聞を眺める。 

 

二人の会話をどこまで辿って行っても、動物園にやってきた理由を見出すことは出来ません。そんな読み手の疑問をよそに、二人は特に感想も残さずに動物園を去っていきました。教室でこの作品に接した皆さんは一様にこう思ったのではないでしょうか。

 

           これで本当に小説と言えるの!?

 

それでもアイスクリームやホット・ドッグを食べる僕と彼女の様子を想像し、ちぐはぐな会話のやり取りを聞いているうちに、ムクムクと想像が湧いて来ませんか。

 

・・・僕と彼女の関係性は?・・・なぜカンガルーの赤ちゃん?・・・二人がそこに見たものは?・・・二人はその後どうなった?・・・

 

なんだかこれは 二人がカンガルーを観察する視点と似ています。そして、ボクたち読者はその時々の事情に応じて物語に向ける想いを変えていきます。

 

【大いなる不完全性】

この作品に先だって発表された『カンガルー通信』という短編の結末では、次のような作者の決意が語られています。

 

 僕は不完全さを志したのです。だからこころよくそれに従いましょう。その不完全さを、あなたと四匹のカンガルーが支えてくれるのです。

 

従来の小説は、「作者の自意識の表れがいかに文学的か」によってその価値が決定される傾向がありました。学校ではその「文学的なるモノ」を読み取ることを国語教育の中心に据えてきたと思われます。

 

しかしこの作品のように、作者はもとより登場人物の自我すらも隠蔽された場合には、物語は作者の自意識の束縛から解かれて、普遍性という終わりのない広がりに向けて開かれます。これが当時の村上春樹が志した《不完全さ》ではないかと思います。

 

果たしてこうした試みが、その後の文学界にどのような影響を及ぼしたのかボクには分かりません。それでも『テクスト論』という概念さえなかった時代に、この作品を世に送り出した若さと勇気に対しては、確信をもって拍手を送りたいと思うのです。