村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【カンガルー日和】「カンガルー日和」より

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 短編集『カンガルー日和』は掌編を18編集めて構成されています。今回はその中から高校の現代国語教科書にも採用された表題作をご紹介します。

 

【要旨】

  • 待ちに待った月曜日の朝、僕と彼女は動物園へと出かけた。
  • 柵のなかには三匹のカンガルーと生まれたばかりの一匹の赤ちゃん。
  • 二人はホットドッグを食べコーラを飲み、そしてカンガルーの柵をあとにした。

 

【月曜日の朝】

カンガルーの赤ちゃんを見たいという彼女と、それに消極的ながら同意する僕の一日が乾いた言葉で記述されます。彼らは動物園に何を求めてやってきたのでしょう?

 

「でもね」と僕は抗議した。「たしかに君の言うとうりかもしれないけれど、僕はキリンのお産だって見たことないし、鯨が泳いでいるところだって見たことがない。なぜそれなのにカンガルーの赤ちゃんだけがいま問題になるのだろう」

「カンガルーの赤ちゃんだからよ」と彼女は言った。僕はあきらめて新聞を眺める。 

 

二人の会話をどこまで辿って行っても、動物園にやってきた理由を見出すことは出来ません。そんな読者の疑問をよそに、二人は特に感想も残さずに動物園を去っていきました。教室でこの作品に接した皆さんは一様にこう思ったのではないでしょうか。

 

           これで本当に小説と言えるの!?

 

それでもアイスクリームやホット・ドッグを食べる僕と彼女の様子を想像し、ちぐはぐな会話のやり取りを聞いているうちに、ムクムクと思念が湧いて来ませんか。

 

・・・僕と彼女の関係性は?・・・なぜカンガルーの赤ちゃん?・・・二人がそこに見たものは?・・・二人はその後どうなった?・・・

 

なんだかこれは 二人がカンガルーを観察している様子によく似ています。ボクたち読者はその時々の心境に応じて、物語に向ける思いを変化させています。その意味で、ボクたちの読みは固定していないばかりか、物語から自立したものであることがお分かりいただけますでしょうか。

 

【大いなる不完全性】

 この作品に先だって発表された『カンガルー通信』という短編の結末には、次のような作者の思いが語られています。

 

 僕は不完全さを志したのです。だからこころよくそれに従いましょう。その不完全さを、あなたと四匹のカンガルーが支えてくれるのです。

 

 従来の小説は、「作者の自意識の表れがいかに文学的か」によってその価値が決定される傾向がありました。学校ではその「文学的なるモノ」を読み取ることを国語教育の中心に据えてきたように思われます。

 

 しかしこの作品のように、作者はもとより登場人物の自我すらも隠蔽されている場合には、ボクたちの読みは作者の自意識の束縛から解かれて、終わりのない広がりに向けて開放されます。これが当時の村上春樹が志した《不完全さ》ではないでしょうか。

 

 果たしてこうした試みが、その後の文学界にどのような影響を及ぼしたのか、ボクには分かりません。それでも『テクスト論*1』という概念さえなかった時代に、この作品を世に送り出した若さと勇気に対して喝采の拍手を送りたいと思うのです。

*1:文章を作者の意図に支配されたものと見るのではなく、あくまでも文章それ自体として読むべきだとする思想のこと。