村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【マイ・ロスト・シティー】(マイ・ロスト・シティーより)

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 わずかのあいだ、というのは私がそんな役まわりには向いていないということがはっきりするまでだが、私は時代の代弁者というのみならず、時代の申し子という地位にまで祀り上げられてしまった。私がである。

 

 本作は実話に基づいたフィッツジェラルドのエッセイです。 華々しいデビューを飾った彼のニューヨークでの奔放な生活ぶりから始まります。

  

 我々は見知らぬドアを抜けて、見知らぬアパートにどんどん入り込み、タクシーを次々に乗り継いで、その中で陽気に騒いだ。素敵な夜だった。ニューヨークの街とやっと一体化できたような気がした。

   

 憧れていた成功が平凡なものに成り下がった頃、彼の作品に対する評価も陰りを帯びてきました。ニューヨークに見切りをつけた彼は、妻のゼルダと共にヨーロッパに渡ります。

 

私はこう思ったものだ。この都市と私のあいだには互いに与えあうべきものはもう何もないのだ、と。そこで私はこの住み慣れたロング・アイランドの空気を旅行カバンに詰め、遥か異国の空の下にそのまま持ち込むことにした。

  

 彼らが再びニューヨークに戻ってきたとき、かの地には大恐慌の嵐が吹き荒れていました。どこまでも続くと思われたアメリカの繁栄にも限りがあることを知ります。

 

ニューヨークは結局のところただの街でしかなかった。宇宙なんかじゃないんだ、そんな想いが人を愕然とさせる。彼が想像の世界に営々と築き上げてきた光輝く宮殿は、もろくも地上に崩れ落ちる。

  

 さて、フィッツジェラルドのたたみかけるような文章の活きの良さを感じて頂きたいと思って少し多めに引用してみました。

 

【外言と内言】

 《外言》とは他人に話す言葉であり《内言》とは考えるための言語のことです。言語学者ヴィゴツキーによれば、幼児のコミュニケーションは《外言》の獲得からはじまり、やがてそこから自己に向けられた抽象的な《内言》へと分化していくとされています。

 

 大人でありながら外と内が分化していない人を見ると、その奇妙な幼児性に興味を惹かれることがあります。例えば、お笑いタレントの出川哲郎は(芸風として作られたとしても)そのような未分化を保った特殊な人物の一人だとボクは常々感じています。

 

 もしかするとフィッツジェラルドも、書き言葉において《内言》と《外言》が一体化した稀有な人物なのかもしれません。内面の成熟により幼児性は払拭されていますが、直観的に紡ぎ出される文章には裏表のない透明感が漂います。《外言と内言》が一致して見えるという奇特さに、ボクたち読者は無意識に引き寄せられているのではないでしょうか。

 

 これで本書の紹介は全て終わりとなりますが、最終話の『マイ・ロスト・シティー』に描かれるエピソードはフィッツジェラルド人生劇場の第1幕にすぎません。波乱の第2幕を描いた傑作エッセイ・パートⅡのご紹介は、いずれまた別の機会に(^^)/。