村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【TVピープル】(TVピープルより)

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 作品集『TVピープル』では、主人公が社会問題に直接関与していく様子が描かれます。この作品以前は、ほどよい距離感を保ちながらクールに論じるスタンスでしたが、ここでは当事者として問題と対峙することで得体の知れない《恐怖と暴力》が出現します。そのような状況におかれた人が成し得ることは何でしょうか? 本書に収録された六つの作品を通じて考えていきたいと思います。

 

 さっそく表題作の『TVピープル』からご紹介します。

 

《あらすじ》
曜日の夕方、3人のTVピープルが部屋にやってきた。彼らはサイドボードの上の置き時計や雑誌をひっかきまわして、運び入れたテレビをそこに置いた。僕はスイッチを入れてみるが、そこには何も映らない画面しかでてこない。僕は読みかけの本に戻ろうとするが、もはや活字に集中することなどできない。

 

『ある日曜日の夕方』

入り乱れる潮のように、予感が記憶をひき、記憶が予感を引く。空におろしたての剃刀みたいな白い月が浮かんで、疑問の根が地中を這う。人々は僕にあてつけるようにわざと大きな音を立てて廊下を歩く。カールスパムク・ダブ・カールスパムク・ダブック・カールスパムク・クブ、とそれは聞こえる。TVピープルはだからこそ日曜日の夕方を狙って僕の部屋にやってきたのだ。

 

曜日の夕方が近づいてくると、いつもきまって「僕」の頭は疼き始める。嫌な予感と記憶に加えて、意味の分からない幻聴まで聞こえ始める。そんな憂鬱な空気に紛れて《TVピープル》は忍び寄ってきた。

 

『彼らはノックもしなかった』

彼らはノックもしなかったし、ドア・ベルも鳴らさなかった。こんにちはとも言わなかった。ただそっと部屋に入ってきただけだった。足音も聞こえなかった。ひとりがドアを開け、あとの二人がテレビを抱えていた。それほど大きくないテレビだった。ソニーの、ごく普通のカラー・テレビだった。

 

らは普通の人間を2~3割縮小コピーしたような姿をしていて、「僕」以外の誰もが彼らの姿を目にしていながら、居ないものとして振るまっている。彼らは次第に「僕」の生活を狂わせ、大事なものを奪い、そして抵抗する意志さえも奪いとっていった。

 

 【無力感を吹き払うために】

 《TVピープル》はメディアのもつ全体主義的傾向を擬人化したものと思われます。ディストピア小説として有名な『1984』では、重厚な《ビッグ・ブラザー》が全体主義の象徴として描かれていましたが、現代ではより洗練された《TVピープル》が社会を統治する役割を担いつつあるという寓意が読み取れます。

 

 ただ、私が気になるのは、日曜日の夕方に憂鬱な気持で《TVピープル》の到来を待ち受けていた「僕」の心理状態です。マントラのように繰り返される心の声に苦しめられて何も手につかないという状態は、私も過去に体験した記憶があります。私はこの物語の背景に漂う無力感に、ただならぬ深刻さを感じずにはいられません。

 

 ストレスから来る不安やイライラ、緊張、無気力の大半は、身体の硬直が引き起こしていると言われます。一度泣き出した子供が、なかなか泣きやむことが出来ない様子を見ればそのことがよく分かります。そんな状態から抜け出すには、ご自分の身体と向き合うことが肝要です。硬直を解きほぐすためにスポーツ、ヨガ、サウナなど何でも構いません、継続的に生活習慣に取り入れて、リラックスした状態をいつでも取り戻していきましょう!

 

 さて、心身の調子を整えて《TVピープル》に立ち向かう英気が蓄えられたなら、次の作品へと参りまたいと思います・・・が、次回のブログまでしばしお待ちを。