村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【我らの時代のフォークロア―高度資本主義前史】(TVピープルより)

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 本作は、終焉したはずの恋愛が、時を経て成熟した二人の前に現れ、再び離別が繰り返される、という哀しくも静謐な情景を描いた作品です。全体的な構成としてはフィッツジェラルドの名作『冬の夢』*1の影が感じられます。

 

《あらすじ》
校時代の同級生に、成績が良くて、運動ができて、親切で、いつもクラス委員をしていた男がいた。彼には校内でも指折りの美人のガールフレンドがいて、二人はお似合いのクリーン・カップル。僕はイタリアの町で偶然この男と再会した。そこで彼は当時の打ち明け話をし始めた。これは我が1960年代のフォークロア(民間伝承)である。

 

貞淑な彼女の約束』

彼女は唇を結んで、小さく首を振った。「あなたのことはとても好きよ。でも私は結婚するまでは処女でいたいの」と彼女は静かな口調で言った。そして彼がどれだけ言葉をつくして説得しても、耳を貸そうとはしなかった。

 

は孤独と不安の解決を求めて言い寄りますが、彼女の方は頑なにそれを拒み続けていた。やがてそれぞれ別の大学に進み、一時的な遠距離恋愛の末に二人の交際は自然消滅。彼女が口にしたある約束だけを残して・・・。

 

『おとぎ話の結末』

どうして断れるだろう?それは永遠のおとぎ話なのだ。それはおそらく一生にたった一度しかない見事なフェアリー・テイルなのだ。彼がいちばん傷つきやすい時期をともに送った美しいガールフレンドが、あなたと寝たいから今から家に来てくれと言っているのだ。

 

る日、彼女から電話がかかってくる。彼女は別の男性と結婚しており、彼は事業の成功に向けて気持ちを切り替えて取り組んでいた矢先。昔話に花を咲かせた後で、彼女は例の約束を切り出すが・・・。

 

大きな物語から小さな物語へ】

以下に村上春樹フィッツジェラルドの『冬の夢』について解説した文章を引用します。

 

この小説において彼は若さの鮮やかな発熱と老成の切なさとを、あるいはまた若さの切なさと老成の静かな温もりとを、実に巧妙に交差させている。そしてその交差の中に、人の魂が一度は辿らなくてはならない痛切な道程を、実に美しく描き切っている。(「冬の夢」のためのノートより)

 

 これはまさに私が本作に感じた読後感にぴったりと当てはまります。時代の呪縛にからみ取られる女性の運命と、それを黙って見送るしかない男性の無力感。そんな葛藤が若さであり、それを受け入れる諦念が心の成熟ではないでしょうか。

 

 さて、これ以上余計な言葉を付け加えることにためらいも感じますが、この作品の立ち位置について触れておきます。

 

 先の『ダンス・ダンス・ダンス』までは「程よい距離感」と「問題の普遍化」によって《高度資本主義(=大きな物語)》について語ってきた作者ですが、ここでは男女のあいだに起きた出来事を、普遍化し得ない《民間伝承(=小さな物語)》として提示しています。そこには、これまでの自己本位なあり方を脱し、マイノリティの声に耳を傾けようとする作者の姿勢が感じられます。村上春樹は本文の中で、自戒とも受け取れる次のような言葉を記しています。

 

そして自分がかつてどれほど傲慢な人間であったか、それについて考えていた。僕はそのことを何とか彼に伝えたいと思った。でもうまく伝えられそうになかった。

 

 どうやらこの時期の作品の意味するところが、おぼろげに分かってきた気がします。そのことを次の作品でさらに確かめたいと思います。ご期待ください(^_-)-☆

*1:1920年代前半、20代にして絶頂期にあった天才的作家フィッツジェラルドが溢れる才能にまかせ書き上げた『グレート・ギャツビー』の原型ともいうべき短篇。