村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【バースデイ・ケーキ】(『バースディ・ストーリーズ』より)

 作者のダニエル・ライオンズはアメリカのTV放送局HBOの脚本家兼プロデューサー兼小説家です。本作は1993年に発表された短編集に収録されています。この奇妙な読み応えの作品が、アメリカの読者に受け入れられている理由について考えてみました。

 

《あらすじ》
刻は夕方の6時をまわった。ニコの好物であるホワイト・ケーキを買うために、弱った足腰でベーカリーへ向かう高齢のルチア。ベイカリーでは洗濯屋で働いているマリアが彼女が来るのを待っていた。店の主人はマリアの娘の誕生日のために、本日一つだけ残されたルチアのケーキを譲ってあげてほしいとルチアに願い出た。

 

『毎週欠かさず買ってきたケーキ』

「いいかい、毎週欠かさずわたしはこのケーキを買ってきた。遥か昔からそうしてきた。なのによそものがわきから割り込んできて、はいどうぞってあんたは横流しするっていうのかい」

 

チアは店主とマリアに向って啖呵をきり、ケーキを譲ることを断った。寝たきりのまま死んでしまったニコのことを思い出しながら。家に帰りついた彼女は、習慣と化した手順を淡々と済ませると、満たされない気持ちを抱えて、ひとりため息をついた。

 

【教養の終焉】

 政治学者のアラン・ブルームは、ベストセラーとなった著書『アメリカン・マインドの終焉』のなかで、現代アメリカの精神の空洞化は、《ドイツ・コネクション(ドイツ思想)》をまともに消化せず、チューインガムのように使い捨てにしてきた点にあると指摘しています。

 

 例えば、「カリスマ」「ライフスタイル」「コミットメント」「アイデンティティ」といった言葉は、もともとニーチェフロイトマックス・ウェーバーなどのドイツの社会哲学的概念から来ているのですが、実利主義が先行するアメリカ社会のなかで拡散・解体されて日常的な俗語と化してしまったと彼は嘆いています。

 

 「教養」の持つ特権的な地位が相対的に下がっていくにつれ、人々はそれをあたかもファッションのように消費し始めます。文学においても、かつて近代文学の主流を成していた《教養小説(ビルドゥングスロマン)*1》は流行おくれとなって、読者の支持を急速に失っていきました。

 

 さて、本作は孤独な都会暮らしの老女を主人公にした物語です。自己愛が満たされず、まわりからも大事にされない疎外感から、意固地になる高齢者の姿が描かれています。そこには「精神の成長」もなければ「個人と社会の相克」も存在しません。まさに《教養小説》の対極にある作品です。

 

 それでも、細部に描かれたリアルさはには心を打つものがあり、老女の誇張されたワガママぶりには思わずニンマリしてしまいます。シチュエーション・コメディを見るようなテンポの良さも、TVプロデューサーでもある作者らしいところ。

 

 果たして、ブルームが言うように「教養の終焉」は本当に精神の空洞化をもたらすのでしょうか?その指摘はアメリカにとどまらず、私たちにも及んでいるのでしょうか?

 

 どうやらこれは短編集『バースデイ・ストーリーズ』全体に関わる問いかけのように思えてきました。それぞれの作品は「誕生日」という共通項だけではなく、どれも現代小説のあり方を示しているように見えます。結論はひとまず先送りして、次回も作品のご紹介を続けてみたいと思います。

 

*1:主人公がさまざまな体験を通して成長していく過程、あるいは弁証法による絶え間ない自己改良を描いた小説のこと。