村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑩恋するザムザ】(『恋しくて』より)

 本作は村上春樹自身がこの短編集のために書き下ろした作品です。カフカの『変身』の奇想天外な後日譚が描かれています。

 

《あらすじ》
人公が目を覚ますとグレゴール・ザムザに変身していた。彼には過去も未来も現在のこともほとんど理解できず、服の着方さえわからない。寒さを感じてクローゼットからガウンを取り出して身にまとう。何者かによって用意された食事で空腹を満たす。部屋のベッドでまどろんでいると突然玄関のベルが鳴る。ドアを開けるとそこにはせむしの娘が立っていた。

 

『あなたに尋ねたいことが』

「あなたに尋ねたいことがたくさんあるんです」とザムザは言った。

「何について?」

「この世界の成り立ちについて、あなたについて、ぼくについて」

 

むしの娘は錠前の修理のためにザムザの家を訪れた。しかし、壊れた錠前の事情だけでなく、身内の不在の理由も、外で起きている大変な出来事のことも彼の理解を超えていた。それでもただひとつ、娘に再び会いたいという気持ちだけは、彼も彼の心も理解した。

 

【海外作品との遭遇】

 短編集『恋しくて』を通じて海外のラブ・ストーリーをご紹介してきました。どの作品も文化の違いだけでなく、多様で複雑な恋愛観を含んでいて、正直どこから読み解いたらよいのか分からないこともありました。その時の私の心境は、ザムザに変身した主人公が遭遇した疎外感にどことなく似ています。

 

『妙なもんだね』

「しかし妙なもんだね」と娘は思慮深げに言った。「世界そのものがこうしてこわれかけているっていうのに、壊れた錠前なんぞを気にする人がいて、それをまた律義に修理しに来る人間がいる。考えてみればけったいなもんだよ。そう思うだろう?でもさ、それでいいのかもしれない。意外にそれが正解なのかもしれないね。」

 

は戦場と化していた。銃を持った兵隊があふれ、道路は戦車で固められ、橋という橋に検問所が設けられていた。そんな状況下で、ものごとの細かいあり方を律義に維持していくことにどんな意味があるのか? そんな娘の話にザムザは黙って耳を傾けた。

 

【こわれかけた世界】

 戦争、飢餓、環境破壊、経済格差、パンデミック。物心がついて以来絶えずこわれ続けるこの世界。あるべき世界の姿を思い描けば、その姿からの逸脱は崩壊と見なされ、あるべき姿の衝突が世界に誤謬を拡散する。私たちが抱く信念や理想は、そんな「あるべき」が作り出す逆行なのかもしれません。

 

 さて、本作から受けるイメージのように、不確かな非日常に振り回されず、こつこつと日々の秩序を積み上げるという在り方は、平凡な生活者のひとりである私にはしっくりときます。そして《ラブ・ストーリー》を味わうこともまた平凡な日常の営みのひとつ。何か目的があるわけでもなく、ただその先を知りたいと望むままに日々の情緒の糧を得る。たとえ今はそこに意味を見出せなくとも、私にはそれで充分なように思えます。

 

  ピュアな恋心★★★  カフカ的世界観★★★

 

 これにて短篇集『恋しくて』の10作品を全てご紹介することが出来ました。最後までお付き合いいただきありがとうございます。