村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【⑤陰鬱なメロディー】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 訳者の村上春樹グレイス・ペイリーの書く小説について『知的でソフトなエニグマに満ちた作品』であると語っています。その難解な暗号を読み解くことは何ものにも代えがたい喜び!となるはずでしたが、今回は正直かなり悪戦苦闘しました。この空中分解すれすれの解読が、次にチャレンジする読者の手がかりになれば良いのですが。

 

《あらすじ》
もが知っている家族の子どもたち。年上の女の子たちは弟たちの面倒を放り出して日々パーティーに出かけている。学校に通う男の子たちは乱暴な言葉を覚えてシスターたちを困らせている。母親は日常のごたごたに振り回されて子供たちにかまう余裕は全くない。ある日、シスターが男の子二人への放校処分を告げにやってきた。

 

『ごたごたと隣り合わせで暮らすこと』

母親は何も言わなかった。シスターにはぜんぜんわかっていないんだと彼女は悟ったからだ。ごたごたと隣り合わせで暮らすというのがどんなことなのか、この人にはわかりっこないんだ。

 

親はシスターの宣告を黙って受け入れた。公立校に転校すると子どもたちはますます酷い口のきき方をするようになった。そしてある日、兄弟の一人が友達と喧嘩をして相手を傷つけてしまう事件を引き起こした。

 

【破壊と調和のメロディー】

 ヒンドゥー教には、宇宙の創造、破壊、調和をつかさどる神としてブラフマー神、シヴァ神ヴィシュヌ神が存在します。これらは単一の神聖なる存在から顕現した三つの機能を異にする様相に過ぎず(三神一体)、その実相を知ることが悟りのひとつとされています。

 

 例えば、シヴァ神は「粗野で御しがたく、気まぐれで、危険」、ヴィシュヌ神は「宇宙をあまねく満たす、力強く、慈悲深い」といった偶像化がなされ、様々な物語にキャラクター化されています。ブラフマー神の創造性だけは具現化が難しいためか影が薄い傾向にありますが。

 

 さて、この物語には男の子たちの「粗野で御しがたく、気まぐれで、危険」な日々が描かれています。日常的な暴力にまみれていく彼らの行く末には、アメリカが引きも切らず介入し続けた戦場が待ち受けます。作者が聞き取った『陰鬱なメロディー』とは、このような大国アメリカの負の一面です。

 

 物語に登場するシスター、母親、祖母は本来なら「宇宙をあまねく満たす、力強く、慈悲深い」役割を担うはずですが、厳格で世知に疎いために、男の子たちの言動に振り回されて愚痴をこぼすばかり。おそらくそれは、男の子たちの破壊願望を助長してさえいます。

 

 物語を読み終えて、私は次のような妄想を思い浮かべました。もしシスター、母親、祖母が秩序の破壊に乗り出し、すさんだ世の風潮に抗い始めたら、《三神一体の理論》に従えばシヴァとヴィシュヌは入れ替わり、男の子たちは破壊よりも調和に彼らのエネルギーを注ぎ始めるかも。少なくとも作者の言う『陰鬱なメロディー』は別の音色を響かせ始めるに違いありません。

 

 でも結局のところ、グレイス・ペイリーはそんなプロパガンダめいた空想を描きませんでした。彼女はあくまでも自分の目で見て感じ取った現実だけを記述しています。そんなリアルさの奥にはもっと別の景色が広がっているようが気がしてなりません。今回のところはここまで('ω')

 

【バースデイ・ケーキ】(『バースディ・ストーリーズ』より)

 作者のダニエル・ライオンズはアメリカのTV放送局HBOの脚本家兼プロデューサー兼小説家です。本作は1993年に発表された短編集に収録されています。この奇妙な読み応えの作品が、アメリカの読者に受け入れられている理由について考えてみました。

 

《あらすじ》
刻は夕方の6時をまわった。ニコの好物であるホワイト・ケーキを買うために、弱った足腰でベーカリーへ向かう高齢のルチア。ベイカリーでは洗濯屋で働いているマリアが彼女が来るのを待っていた。店の主人はマリアの娘の誕生日のために、本日一つだけ残されたルチアのケーキを譲ってあげてほしいとルチアに願い出た。

 

『毎週欠かさず買ってきたケーキ』

「いいかい、毎週欠かさずわたしはこのケーキを買ってきた。遥か昔からそうしてきた。なのによそものがわきから割り込んできて、はいどうぞってあんたは横流しするっていうのかい」

 

チアは店主とマリアに向って啖呵をきり、ケーキを譲ることを断った。寝たきりのまま死んでしまったニコのことを思い出しながら。家に帰りついた彼女は、習慣と化した手順を淡々と済ませると、満たされない気持ちを抱えて、ひとりため息をついた。

 

【教養の終焉】

 政治学者のアラン・ブルームは、ベストセラーとなった著書『アメリカン・マインドの終焉』のなかで、現代アメリカの精神の空洞化は、《ドイツ・コネクション(ドイツ思想)》をまともに消化せず、チューインガムのように使い捨てにしてきた点にあると指摘しています。

 

 例えば、「カリスマ」「ライフスタイル」「コミットメント」「アイデンティティ」といった言葉は、もともとニーチェフロイトマックス・ウェーバーなどのドイツの社会哲学的概念から来ているのですが、実利主義が先行するアメリカ社会のなかで拡散・解体されて日常的な俗語と化してしまったと彼は嘆いています。

 

 「教養」の持つ特権的な地位が相対的に下がっていくにつれ、人々はそれをあたかもファッションのように消費し始めます。文学においても、かつて近代文学の主流を成していた《教養小説(ビルドゥングスロマン)*1》は流行おくれとなって、読者の支持を急速に失っていきました。

 

 さて、本作は孤独な都会暮らしの老女を主人公にした物語です。自己愛が満たされず、まわりからも大事にされない疎外感から、意固地になる高齢者の姿が描かれています。そこには「精神の成長」もなければ「個人と社会の相克」も存在しません。まさに《教養小説》の対極にある作品です。

 

 それでも、細部に描かれたリアルさはには心を打つものがあり、老女の誇張されたワガママぶりには思わずニンマリしてしまいます。シチュエーション・コメディを見るようなテンポの良さも、TVプロデューサーでもある作者らしいところ。

 

 果たして、ブルームが言うように「教養の終焉」は本当に精神の空洞化をもたらすのでしょうか?その指摘はアメリカにとどまらず、私たちにも及んでいるのでしょうか?

 

 どうやらこれは短編集『バースデイ・ストーリーズ』全体に関わる問いかけのように思えてきました。それぞれの作品は「誕生日」という共通項だけではなく、どれも現代小説のあり方を示しているように見えます。結論はひとまず先送りして、次回も作品のご紹介を続けてみたいと思います。

 

*1:主人公がさまざまな体験を通して成長していく過程、あるいは弁証法による絶え間ない自己改良を描いた小説のこと。

【④午後のフェイス】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 本作から作者グレイス・ペイリー自身を投影したと思われる主人公に『フェイス』という名前が付きます。ただし、1人称で語られていた文章は途中から3人称に、さらに登場人物たちが次々と割り込んで独自の主張を繰り広げ、物語はにぎやかな〈ポリフォニー*1〉を奏で始めます。

 

《あらすじ》
カルドと結婚したために私(フェイス)は二人の子どもを抱えて文句なく惨めな境遇にいる。両親と兄妹は私の愚かしい境遇に対して顔をしかめ、意地をはって不幸から抜け出さない私のことを恥ずかしく思っている。いいわよ、恥ずかしく思いなさい。それがなんだっていうのよ!

 

『フェイス!よくお聞きなさい』

「ねえ、ママ」とフェイスは先日〈ユダヤの子どもたち(=老人ホーム)〉を訪問したときに言った。「私とリカルドは、もうこれ以上一緒にやっていけないと思うの」

「フェイス!」と母親は言った。「あなたったら、ほんとに短気なんだから。いいこと、よくお聞きなさい。この人生の中ではね、そんなのは珍しいことじゃないのよ・・・(以下長々と続く)」

 

ェイスは身持ちが良くない夫リカルドの相談で、老人ホームにいる母のもとを訪れた。強烈キャラの『おばあさんたちの毛糸の靴下協会』会長も加わり、ガールズ・トークに花が咲く。一方、後から現れた父親のおしゃべりパワーは、そんな彼女すらも沈黙させた。

 

ポリフォニー小説】

  文芸批評家のミハイル・バフチンは著書のなかで、ドストエフスキー作品が持つ革新性について論じています。

ドストエフスキーは、芸術形式の領域における最大の革新者の一人とみなすことができる。思うにドストエフスキーはまったく新しいタイブの芸術思想を打ち立てた。本書ではそれをかりにポリフォニーという名前で呼んでいる。(『ドストエフスキー詩学』より)

 

 例えば作品の中で、作者の意志に反して登場人物があたかも独立した人格のように振る舞い始めると、人物相互の間に「リアルな対話」が生まれます。それは現実的な状況下で起こる視点の多様性を物語上に再現します。バフチンが発見したこうした小説技法は《ポリフォニー論(対話理論)》と呼ばれています。

 

 本作は老人ホームを舞台にした拡大家族のなかで、登場人物たちが作者を飛び越えて会話を交わし合う《ポリフォニー小説》になっています。訳者の村上春樹はこれに『カラフルな物語宇宙』と名付けていますが、先が読めない展開の妙にはTVのトーク・バラエティにも似た楽しさが感じられます。

 

 とはいえ、「ロシア系移民のユダヤ人家系のニューヨーク生まれのフェミニスト女性」というややこしい背景を呑み込むまでに、時間をかけて何度も読み返す必要があるかもしれません。私も最初はそうでしたから。それでも本書を読み終え、彼女らの仲間入りとはいかなくとも、違和感がぬぐえてきた頃にはグレイス・ペイリーの魅力にすっかり病みつきになっていました(^-^)

*1:主旋律・伴奏といった区別がなく、どの声部も対等に扱われる音楽。転じて、各自別々の目標、物語を持った登場人物たちが自律的に対話をする文学形式を表す。

【ティモシーの誕生日】(『バースディ・ストーリーズ』より)


 本作を書いたウィリアム・トレヴァーアイルランド出身の作家です。祖国の抱える複雑な事情を背景に、民族のアイデンティティと葛藤を描いてきたとされます。短篇の名手として高く評価され、ノーベル文学賞の候補に何度も名前が上がったと言われています。

 

《あらすじ》
ィモシーはこの15年間、彼の誕生日には必ず実家へ帰省し、両親から心のこもったお祝いをされてきた。33歳になった日、彼は使用人のエディーに体の具合が悪いという嘘のメッセージを託して使い走りをさせた。仕方なくティモシーの実家を訪れたエディーは、引きとめられて誕生日の息子の代役を果たす羽目になる。

 

『母親も真相に思い当った』

そのとき---再び沈黙が降りてそれが数分続いたとき---母親もまた真相に思い当ったことがエディーにはわかった。ティモシーは実はぴんぴんしているんだ、そういう表情が彼女の顔にはっと浮かんだのだ。

 

親は始めからティモシーの嘘を見破っていた。それまで明るかった母親は一切口をきかなくなった。エディーは昼食会が突如異様な雰囲気に包まれたことに当惑する。こうした事態が引き起こされた理由を理解できないまま、彼は屋敷の置物を盗んで逃亡した。

 

アイルランドの視点】

 かつてイギリスの支配下にあったアイルランドの貧困、宗教、独立を巡る問題は《アイルランド問題》と呼ばれていました。本作でも触れられる『移動生活者(アイリッシュ・トラヴェラー)』は繰り返された弾圧の歴史がルーツとも言われています。いずれにしても《アイルランド問題》には〈やっかいな問題〉という響きを色濃く含んでいます。

 

 街に出て立身出世の野心を抱く若者と、故郷で名家を再興する夢を彼に託していた両親の思惑のすれ違い。その背景に、巨匠ウィリアム・トレヴァーのレトリックによって、複雑な問題が浮かび上がってきます。それは部外者からすれば出口の見えない〈やっかいな問題〉です。しかしそこには、長く歴史の表舞台に立つことのなかったアイルランドの側からみたもう一つの世界が見えてきます。

 

【③道のり】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 今回ご紹介する作品には、自分の息子と既婚女性との不倫関係について申し開きする母親が登場します。彼女が弁明すればするほど隠れた事実が次々と露呈していきます。道義的な問題はこの際一旦脇に置いて、そのストーリーテリングの面白さを味わいたいと思います。

 

《あらすじ》
の階に住んでいるジニーは、亭主が女と駆け落ちしてからというもの子どもたちと泣き暮らしている。それを不憫に思った息子のジョンは、妻がいるにもかかわらずジニーの部屋に入りびたっている。そもそも私はジョンにジニーとの結婚を思いとどまらせた過去がある。大事な息子をジニーなんかに渡せるものですか。

 

『私の息子は私の問題なんだ』

「私の息子の心配をするのは私の問題だね」「ちがいます」と彼女(ジニー)は言います。「それはジョンの問題です」「私の息子は私の問題だよ。私には一人の息子しか残されていないし、その子の心配をするのは私の問題だ」

 

「私」のことを頭の具合があやしいと言う人もいれば、道理をわきまえた女だと言う人もいる。浮気を重ねた夫もあの世に行ってしまったし、今はただ玄関先に座って、ジニーに恋して訪ねてくる息子のジョンの姿を一目見たいと思うだけ。周りは二人についてとやかく言うけれど、大した道のりってわけでもないのにこの騒々しさはいったいどういうこと?

 

【女性にとっての道徳】

 哲学者のボーヴォワールは次のような言葉を残しています。

 

女性が不道徳に陥るのは、女性にとって道徳というものが、非人間的な本質の具体化となっているからだ。(『第二の性』より)

 

 道徳の中でも社会的秩序に関するものは《社会道徳》と呼ばれます。それは伝統や習慣のように文化によって異なる場合もあれば、時代の空気によって変化する場合もあります。ペイリーの時代には、そうした変化は女性たちから発信されています。

 

 例えば、ベトナム戦争にいち早く反対運動を起こした『婦人国際平和自由連盟』は、国家への忠誠という《社会道徳》の破壊者と見なされていました。当時のアメリカ国民の大半は戦争が始まっていたことすら気づいていませんでしたが、北ベトナムへの無差別空爆が始まり、アメリカ兵の戦死者が4桁を越えた頃から、反戦こそが《社会道徳》だと、世の中の情勢は彼女たちの支持に180度転回しました。

 

 物語に登場する母親は、不貞の罪を犯してしまった息子をかばって堂々と既存の《社会道徳》に対抗する論陣を張りますが、残念ながらツッコミどころ満載の支離滅裂ぶり。しかしその熱量は、家族の生活を支えてきた強靭さを伴います。男性の中からは決して出てこないこの妖力は、確かに世の常識を破壊する「何か」を感じさせます。

 

 本来フェミニストであるはずのグレース・ペイリーは、本作では教訓めいた言葉を棚上げして、この愛すべきキャラクターの造形に徹しました。活動家としての主義主張よりも小説家としての血が騒がずにいられない、といった気風のいい作品でした。

 

【ダンダン】(『バースデイ・ストーリーズ』より)


 本作を書いたデニス・ジョンソンは、アイオワ大でレイモンド・カーヴァー*1から教えを受けた作家です。暴力とドラッグに染まった現代アメリカ社会の暗部を精力的に描きましたが、その乾いた文体はカーヴァーのミニマリズムを彷彿とさせます。

 

《あらすじ》
ンダンの誕生日に彼の農家に行くと、銃で撃たれたマッキネスが長椅子にうずくまっていた。仲間たちはぼんやりと事の成りゆきを見守っている。ぼくはマッキネスと彼を銃で撃ったダンダンを車に乗せて病院に向かった。アイオワの広大な畑を通り抜ける道路を走り続けるぼくらはどんどん小さくなっていく。

 

『どこまでいっても抜け出せない』

「どこまでいってもこの道から抜け出せないぜ」とぼくは言った。

「ひでえ誕生日」とダンダンは言った。

 

ンダンはこの後もコロラドで、テキサスで、暴力事件を引き起こし続ける。信じられないかもしれないが、そんな彼の心にも優しさはあった。きっかけさえあれば、あなただって彼のようになってしまうかもしれないのだ。

 

銃社会

 銃社会アメリカでは、毎年多くの人が銃犯罪に巻き込まれて死亡しています。2020年には銃乱射事件は610件と過去最高を記録し、銃犯罪による死者の数は1万9411人に達しています。

 

 銃規制こそが、こうした問題の根本的な解決策であることは誰の目にも明らかなのですが、建国以来の歴史と社会構造に加えて、憲法に規定された「武器保有権」の改正のハードルの高さが問題の解決を阻んでいます。

 

 広大な畑を抜ける見渡す限りまっすぐな道路を駆け抜けながら、物語は有史以前の記憶にさかのぼります。氷河時代から人類が居住する大地は、いつの時代も干ばつが繰り返される不毛な土地でした。アメリカによるこの地の開拓は、長く待ち焦がれた救世主の到来と見なされています。そして、救世主の申し子であるダンダンは、各地で蛮行のかぎりをはたらき続けます。

 

 いつの時代も若者たちは無軌道で破滅的なエネルギーを秘めた存在ですが、そこに命を脅かす銃器が簡単に手に入る環境が加わるとどうなるのか? 私には想像もつきません。もしかすると、多くのアメリカ人も想像力を欠いているのではないでしょうか? だからこそ彼らは「銃を所持することが抑止力となる」という誤った幻想を抱き続けるのかもしれません。

 

 作家デニス・ジョンソンはその生涯を通じて、アメリカ社会という救世主の御業を糾弾し続けたと言われています。

*1:チェーホフと並び称される短篇小説の名手。本ブログが大好きな作家の一人です。

【②負債】(『最後の瞬間のすごく大きな変化』より)

 今回ご紹介するグレイス・ペイリーの2作目は、作者自身をモデルとしたシリーズのひとつです。物語には、まっとうな社会人としての義務を果たそうと考える一人の女流作家が登場し、家族史の編纂という気の進まない仕事に取り組むのですが・・・案の定、彼女のフェミニスト魂に火がついてしまう結果に!

 

《あらすじ》
る女性が作家の私に祖父の伝記を依頼してきたが、私はその申し出を断った。傑出した家系のファミリー・アーカイブを引き継ぎ保存するのはけっこうきついものなのだ、と友人のルチアが説明してくれた。たしかにそのとおりかもしれない。その女性のことはともかく、私は家族や友人に借りを返さねばならない。手始めにその友人の家族の話から始めよう。

 

『マリアはマイケルと結婚した』

 お祖母さんの名前はマリアといった。お母さんの名前はアンナ。彼らは1900年代の初めにマンハッタンのモット・ストリートに住んでいた。マリアはマイケルと言う男と結婚した。彼は働き者だったが、不運といくつかのつらい思い出が、彼をウェルフェア・アイランドの精神病院に追いやった。

 

のマイケルは亡くなり、代わりにマリアはマイケルという同名の男と偽装結婚をした。そうすることで、彼女は女手ひとつの生活から抜け出し、子どもの人格形成に寄与することもできたと自分を納得させた。しかし、物事は上手くいかないもので、偽のマイケルもポックリと逝ってしまう。

 

フェミニズム

 フェミニズムは19世紀の市民革命に端を発し、女性の教育・職業の機会均等や参政権などの権利を求める《第一波フェミニズム》から始まったされます。その後、妻に不利な離婚法の撤廃や、中絶の合法化などの性差別との闘いによる《第二波フェミニズム》が60年代に起こりました。《第三波フェミニズム》と呼ばれる昨今は、目指すべき共通目標を持たないために、ややイズムに一貫性を欠いているとも言われています。

 

 本作は、お世話になってきた人々への、心理的な負債を返済するために始めた家族史編纂の話です。しかしその作業は、いつのまにか女性に対する差別問題の告発へとエスカレートしていきます。フェミニズムを標榜する人たちからすれば、過去の家族史には見過ごすことのできない不平等が山積しています。夫のいない女性にはまともな職につく権利すら得られない、という問題がここでは取り上げられます。

 

 物語に登場する女流作家のひねくれぶりはさておき、このような社会運動の果たした役割に敬服すべき点があるのは間違いありません。この先にご紹介する作品にも、この種の問題が繰り返し登場します。私としては、イデオロギーの部分とはほどよい距離感を保ちつつ、グレイス・ペイリー文学のキモの部分に迫っていきたいとと考えていますがどうなることやら。それでは。