村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【④トーチソング】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 本作は、どうしようもないダメ男ばかりに惚れて破局を繰り返す女性と、彼女を陰ながら見守る男がたどった不思議な話です。タイトルの『トーチソング』は主に1930年代に流行した片思いや失恋の気持ちを歌った流行歌。物語を包み込む純真無垢な旋律の裏には意外な事実が隠されていました。

 

『哀れを感じさせるバラード』

 ニューヨークで知り合ったジャックとジョーンは、男女の垣根を超えたソウルメイト。前向きでエネルギッシュなジャックは、恋人を次々と替えながら都会生活を満喫していた。一方、穏やかで人当たりの良いジョーンが出会う相手は、酒や薬物の依存者や荒くれ者ばかり。

 

 ある日ジョーンから電話がかかってくる。周囲からの言いがかりでアパートを追い出されかけていると彼女は言うが・・・

 

業者と近隣住民から受けたひどい仕打ちについて語る彼女は、いつもながらに清純で無垢に見えた。ジャックは彼女の語りの中に憤りや、苦々しさを聞き取ろうと注意深く努めたが、そんなものは聞き取れなかった。切羽詰まった響きさえなかった。彼はあるトーチソングを思い出した。そのやるせない、哀れを感じさせるバラードのひとつを。

 

 その後も悪質な男たちから不遇な扱いを受けているジョーンの噂をたびたび耳にする。しかし、彼女と付き合った男たちが皆哀れな死を遂げていることも明らかになる。

 

 戦時下の混沌とした時代に、結婚と離婚を繰り返しながらジャックは家庭と仕事の両方を失い身体も壊してしまった。そしてついに、場末の安アパートで床に伏せる彼の目の前に、死神さながらの黒服に身を包んだジョーンが姿を現した。

 

【黒い快楽】

 《シャーデンフロイデ》とは、他者が不幸、悲しみ、苦しみ、失敗に見舞われたと見聞きした時に生じる喜び、嬉しさといったねじれた嫉妬感情です。週刊誌のスキャンダル記事や芸能ゴシップを扱う番組に耳目が集まるのは、誰の心にも《シャーデンフロイデ》が存在するためと言われています。黒服を身にまとったジョーンは、黒い快楽を追い求める《シャーデンフロイデ》の化身のような存在です。

 

 田舎からニューヨークにやってきた若者たちが洗練されていく姿を描いているようでいて、話が進むごとに悪夢の様相を呈していきます。ジャックが落ちぶれた理由も、ジョーンが人の不幸を嗅ぎつける魔物になった原因も明かされず、そのあいまいさが恐怖をさらに増幅します。そこには誰もがジャックやジョーンのようになりかねないという寓意も込められているに違いありません。都市に潜むカフカ的不条理という作家ジョン・チーヴァーの本領がいかんなく発揮された作品でした。

 

【独立器官】(『女のいない男たち』より)

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 本作は、都会の片隅で情事を楽しんできた男が、食べ物も喉を通らなくなるほどの痛切な恋に落ち、その結果自らを死に追いやることになってしまった話です。

 

『渡会医師の恋』

 美容整形外科医の渡会(トカイ)と「僕」は趣味のスカッシュを通じて知り合い親交を深めてきた。渡会は恋人や配偶者のいる女性の浮気相手をしながら気軽な独身生活を謳歌していた。しかし、あるとき不覚にも夫と子供を持つ女性と深い恋に落ちてしまう。渡会は敦忠の和歌*1を引き合いにしながら、遅れてやってきた恋煩いの苦悩を「僕」に打ち明けた。

 

「恋しく想う女性と会って身体を重ね、さよならを言って、その後に感じる深い喪失感。息苦しさ。考えてみれば、そういう気持ちって千年前からひとつも変わっていないんですね。そしてそんな感情を自分のものとして知ることのなかったこれまでの私は、人間としてまだ一人前じゃなかったんだなと痛感しました。気づくのがいささか遅すぎたようですが」

 

 その後、渡会はジムに顔を見せなくなり、彼の秘書である後藤から彼が亡くなったことを知らされる。後藤は渡会の恋の顛末を語り、遺品のスカッシュ・ラケットを「僕」に引き渡すと、 この先も渡会医師のことを忘れないでいてほしいと懇願した。

 

【後藤青年の恋】

 渡会は天性の才覚を駆使してパートナーを持つ女性たちと技巧的な交際を重ねてきました。しかし、ある女性の出現によって技巧を手放したとき、悲痛な結末が訪れます。渡会曰く、女性は魂とは別の独立した器官を用いて嘘をつく。同じように渡会もまた独立器官を用いて恋をした。そこには当人たちの意思ではどうすることもできない他律的な作用が働いていました。

 

 その一方で、ゲイの後藤が渡会に寄せる恋心は、慎み深いプラトニックなものでした。普通ではない人物への普通ではない恋情は、励ましも共感も得られない孤独な道程他律的な本能に揺さぶられながらも、自己を律する生き方がここにあります。そしてこのポートレートは、後藤青年がショックから立ち直り、これからの人生をうまく生きていくことを願って記述されたことが、最後に明らかとなります。

 

 渡会医師は死の間際に何を考え、どのような境地に至ったでしょうか? その渡会医師の精神や人生観を後藤青年はどのように受け止めたでしょうか? それを知るすべは無く、いくつもの解釈の余地を残しながら物語は幕を閉じます。

 

 さて、告白の内容の異様さにも関わらず、語り口の巧みさによって思わず引き込まれてしまいました。世知辛い世の中に食傷気味なあなたにおすすめします。読み終えたとき、自分の視野が少しだけ広がったような気分が味わえますよ♪

*1:中納言敦忠の歌:『逢い見ての のちの心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり』拾遺和歌集より

【③サットン・プレイス物語】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 ジョン・チーヴァーの作品はカフカ的手法が取り入れられているところに特徴があります。それは非現実的な要素を通じて、読者が現実の深層に触れたり幻想的な雰囲気のなかで思いを巡らせたりする効果を生んでいます。今回はサットン・プレイスに暮らす「中の上」クラスの家族がパニックに陥る話です。カフカ的手法も含めてご紹介します。

 

『デボラの身に何かあったら』

 ロバートとキャサリンの夫妻にはデボラというかわいらしい3歳の娘がいて、通いの乳母に面倒を見てもらっている。教会での日曜礼拝を欠かしたくない乳母は、夫妻に黙って一時的にデボラを知り合いのルネにあずけていた。そんなある日曜日の朝、ルネが目を離したわずかな隙にデボラが行方が分からなくなってしまう。

 

「もしデボラの身に何かがあったら」とキャサリンは言った。「私は自分を許すことができないと思う。自分のことが絶対に許せない。自分たちがあの子を生贄にしてしまったみたいに感じることになるわ。アブラハムのところを読んでいたの」。彼女は聖書を開いて読み始めた。

 

 デボラを捜すロバートの目に映るサットン・プレイスの賑わいは、生命を脅かす危険が蔓延する空間に変貌した。デボラの身の安全を祈るキャサリンにとって、仕事と社交に明け暮れた充実した日々は、今や灰色の影が差し込む記憶に塗り替えられた。

 

【都会の片隅に潜む神秘】

 我が子の行方が分からないという親にとってたまらなく苦しい時間が流れます。さらに、デボラに関わった人々の行動が白日の下にさらされます。わが子の養育を怠る両親。大人の事情を抱える関係者。偽善と虚無が支配するサットン・プレイスの街。

 

 捜索が進む中で、過去にキャサリンと口論して乳母を辞した女性が登場します。彼女は夢のお告げでデボラの失踪を予知していて、星占いに絡めてデボラには特別の注意を向けるべきと指南。一瞬、物語に怪しげな空気が漂うのですが、ロバートも立ち会いの巡査もこの女性が誘拐犯でないことを確認すると、何事もなかったことにして立ち去ります。

 

 その後デボラは保護されて事なきを得ました。ロバートもキャサリンもこの出来事を通じて自分たちの不道徳や無信仰を反省するのですが、おそらく同じようなことはこの先も繰り返されるように思えてなりません。なぜなら良くも悪くもデボラのことを理解している大人は、乳母を辞したあの女性ただ一人だけなのですから。

 

 かの女性が登場するカフカ的場面は、あえてサブリミナル効果を狙ったのか、緊迫した展開に埋没してしまった感があります。しかし、ここは物語を読み解く勘所なのでネタバレの禁を犯して言及しました。こうした都会の片隅に潜む神秘とその善とも悪ともつかない側面は予定調和を回避して、自由な発想を喚起するチーヴァーならではの趣向が感じられます。

 

【②ああ、夢破れし街よ】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 1950年代の雑誌「ザ・ニューヨーカー」は、サリンジャーカポーティー、オコナー、そしてチーヴァーといった面々によってアメリカ短編小説の黄金時代を築きました。そんな時代の勢いに乗って異彩を放ってきたジョン・チーヴァーの作品を引き続きご紹介します。今回は田舎から成功を求めて大都会のニューヨークへやって来た家族の話です。

 

『熱烈な歓迎』

 劇作家志望のエヴァーツはプロデューサーに認められ、中西部の田舎町からから家族を連れてニューヨークにやってきた。都会で目にするものごとに一喜一憂しながら珍道中を繰り広げる一行たち。プロデューサーの事務所に到着して熱烈な歓迎を受けるが・・・

 

「私たち、あなたのお芝居がとても気に入っているのよ、エヴァーツ」と彼女は言った。「気に入っているし、それを手に入れたいし、それを必要としているの。どれくらい私たちがそれを必要としているかおわかりかしら?私たちは負債を抱えているのよ、エヴァーツ、すごくたくさんの負債を」

 

 世事に疎いエヴァーツ夫婦のサクセス・ストーリーはとんでもない方向に逸脱していき、事態は不穏な様相を帯び始める。夢破れ、深夜列車に乗り込み、西へと向かう彼らが目指した場所は中西部の故郷? それともその先にあるという新天地?

 

【暗黙のルール】

 エヴァーツは安易に二重契約を取り交わしてしまったために業界の怒りを買い、ニューヨークから追放されてしまいます。1950年代のショービジネスの世界で起こる諸問題は、暗黙のルールの下で処理される風潮があります。そうした閉鎖性はさまざまな謎や憶測を呼び、時にドラマチックな逸話を作り出してきました。本作はそうした業界事情をややコミカルに描いています。

 

 1950年代ほどではないにしても、多かれ少なかれ私たちのコミュニティーには暗黙のルールが存在し、持てる者と持たざる者の間には厳然としたギャップが存在します。そうしたほろ苦い経験を感慨深く振り返り、いくぶん風通しが良くなった今の世の中を眺めている自分は、まさに「昭和のオヤジ」です。

 

 そう言えば、新入社員を迎える時期が近づいて来ました。フレッシュな彼らがいったいどんなギャップを味わい、どうやって乗り越えていくのか、優しく見守りたいと思います(´-`).。oO

 

【①巨大なラジオ】(『巨大なラジオ/泳ぐ人』より)

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 アメリカ短篇小説の名手と言われたジョン・チーヴァーの作品をご紹介します。チーヴァーはニューヨーク近郊に暮らす中産階級の人々の人生の悲哀を描きました。細部を緻密に描写するそのタッチ。リアルな日常がいつしか幻想に代わる構成力。彼の作品には短編小説の醍醐味が詰まっています。

 

『プライバシーの漏洩』

 アパートの12階で平穏な暮らしを営むジムとアイリーンの夫婦。買ったばかりのラジオに雑音が混じるので業者を呼んで修理すると、雑音は感度を高めて人の声を捕らえ始めた。声の正体は同じアパートに暮らす住民たちの会話。盗聴器と化したラジオは、他人のプライバシーを漏洩し続けた。

 

「ああ、とても恐ろしいことだわ。とてもたまらない」とアイリーンはむせび泣きながら言った。「一日これを聞いていて、気持ちがすっかり落ち込んでしまった」「気持ちが落ち込むのなら、そんなもの聞かなければいいじゃないか。僕がこのラジオを買ったのは、君が愉しんでくれると思ったからだ」と彼は言った。

 

 住民たちのあからさまな言葉は、アイリーンの心を揺さぶって離さない。そこで再び修理をするとラジオは正常な状態に戻る。しかし、入れ替わるようにしてジムが妻の封印された醜い過去をあげつらい始めた。こうして平穏だったはずの彼女の暮らしは、奈落の底に引きずり込まれていく。

 

中産階級の抱える不安】

 アイリーンはグロテスクな秘匿情報を大量に吸収することで、深刻な無力感に襲われます。一部の週刊誌やワイドショーが報じる不道徳やプライバシー侵害が及ぼす心理的悪影響についてはたびたび議論になりますが、1950年代を舞台としたこの時代にもそうした問題が認知されていたことが伺えます。

 

 チーヴァーは当時の比較的裕福な生活を送る中産階級の読者に向けて、彼らの抱える漠然とした不安を物語の形にして見せました。それは今読み返しても心に響く普遍的な寓意を有しています。ピュリツァー賞や全米批評家協会賞を受賞した名作でありながら、明快で読みやすい作風も本書の特徴です。描写や構成といった文章力に長けた作者の力量によるものでしょう。

 

 さて、今回から本作を含む18編のチーヴァー作品をご紹介していきます。有害な情報が大量に出回る現代では、良質な物語に触れて心を耕していくことはとても大切なことではないでしょうか。本ブログも粗雑な解釈で消化不良を起こさないよう極力気を付けながら記述していきます。どうぞよろしく。

 

【イエスタデイ】(『女のいない男たち』より)

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 『イエスタデイ』の替え歌が話題になった作品をご紹介します。「示唆的要望」を受けて歌詞が雑誌掲載時から大幅に削られてしまって残念ですが、出だしを少しだけご紹介。

 

昨日は

あしたのおとといで

おとといのあしたや

それはまあ

しゃあないよなあ

 

『達者な関西弁』

 木樽は風呂に入るとよくビートルズの「イエスタデイ」に関西弁の歌詞をつけて歌った。田園調布で生まれ育った彼だが、子供の頃からの阪神タイガースのファンが高じて、達者な関西弁のしゃべりを身につけていた。

 

 その当時の「僕」は大学生で、木樽とは喫茶店でアルバイトをする仲間だった。浪人生の木樽には小学校の頃からつきあっている栗田えりかというガールフレンドがいて、彼女は先に現役で大学に入学していた。ある土曜日、「僕」は木樽にのせられて、栗田えりかと二人で映画を鑑賞して食事をする機会を得た。

 

『氷の月』

「私は同じ夢をよく見るの。私とアキくん(=木樽)は船に乗っている。長い航海をする大きな船。私たちは二人だけで小さな船室にいて、それは夜遅くで、丸い窓の外には満月が見えるの。でもその月は透明なきれいな氷でできている。そして下の半分は海に沈んでいる。」

 

 それから二週間ほどして木樽はアルバイトを辞め、姿を消した。実を結ぶことのない夢を見続けた木樽と栗田えりか。二人に起きた水面下の事情が判明するには、16年後の栗田えりかとの再会まで待たねばならない。

 

サリンジャー的世界観】

 本作には、大人の恋愛を拒んで人生の脇道に迷い込んでしまった青年の姿が描かれています。恋人との理想的な関係を求めつつも、社会の価値観に疑問を抱えて先に進むことが出来ない木樽。そんな彼について、語り手の「僕」は自分がなしえなかった人生を歩むもう一人の自分を見ています。

 

 木樽の生き方は特殊ではありますが、真摯な想いがその根底にありました。物語は温かなユーモアを伴いつつ、現実社会の巨大な障壁を前にしたときの若き日の恐怖や苛立ちを呼び覚まします。それはまるで『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『フラニーとズーイ』に描かれた青年期の葛藤を彷彿とさせます。

 

 本作が目指したのは、人としての成熟の手前で宙ぶらりんな状態で成立するあの《サリンジャー的世界観》を描くことだったと思われます。こうした物語を語るには関西弁が最も適していると村上春樹は常々考えていたようで、そのことを匂わせるセリフも登場します。

 

 さて、こうした心の原風景を呼び覚ますために『イエスタデイ』の替え歌は創作されました。決して原曲の価値を損なう意図はないのですが、結局のところ文学に向けられる無理解とはこんなもの。『それはまあ しゃあないよなあ』(*´з`)

 

【⑩そこに浮かぶ真実】(『人生のちょっとした煩い』より)

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 本作は就職口を求めて怪しげな仲介屋と手を組んだ娘の物語です。奇想天外から落ちて来る滋味豊かな世界を描いてきた短編集の最後の作品をご紹介します。

 

『あいつはのしあがっていく』

 車上生活を送る正体不明の仲介屋。娘はその仲介屋の手練手管を頼って仕事を手に入れたが、雇い主は自己中心的で気まぐれな人物だった。その雇用をめぐる放漫経営ぶりに憤慨した娘は、仕事を辞めて仲介屋のもとへ戻って来る。

 

「俺は君をエドセル(=雇い主)のところに送り込んだ・・・・・・あの履歴書を書くには三日もかかったんだ。なぜなら俺は信じていたからだ。あいつはのしあがっていくし、あいつにくっついていれば、しっかりそのお相伴にあずかれるってな。」

 

 さしたる妙案もなく途方に暮れる娘と仲介屋。いつしか心を通い合わせ、車の中で一夜を明かした二人に別れの朝が訪れる。

 

【お昼間タイプ】

 この物語は若者世代の就労観に焦点を当てています。自由主義的な考えが行き渡るアメリカでは仕事の上で個人の成果や自己実現が重視されますが、その一方で競争に負けたり結果を出せなかった場合には、自己責任を問われる厳しい側面を併せ持ちます。社会に乗り出した若者たちは、こうした理念と現実のギャップを身をもって知ることになります。

 

 意気揚々と自立への第一歩を踏み出した娘に対して、自称職業コンサルタントの仲介屋は、まだまだ甘っちょろい「お昼間タイプ*1」と突き放しています。それでも初めての就労を通じて娘は社会の厳しさを知り、同時に弱者の痛みに思いが至った様子もうかがえます。

 

 1950年代の世相を描いた本作ではありますが、社会保障を置き去りにして自由競争の道を突き進むアメリカの姿勢は今も昔も変わりません。職や家を失ってぎりぎりの生活に踏みとどまる貧困層マネーゲームに興じる富裕層の格差は広がり続けています。この現実を直視しない限り、アメリカ社会の分断はこの先もますます深刻化していくことでしょう。

 

 さて、これでグレイス・ペイリーが世に送り出した3冊の短編集のうち2冊を本ブログでご紹介し終えました。残る1冊を近いうちにと思いつつも、フィッツジェラルドもカーヴァーもチャンドラーも紹介しきれていませんし、本家本元の村上作品もないがしろにできないし気もそぞろ。そんな時には『ゆっくり歩け、そしてたっぷり水を飲め』 今流行りのタイムパフォーマンスなんぞ気にせず、ゆるりと参ります!(^^)!

*1:午前中にまとめて仕事を行い、午後は自己啓発や趣味の時間を持つような自由かつ気楽な働き方を志向するタイプ。