村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【踊る小人】「蛍・納屋を焼く・その他の短編」より

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 本作は小人や象工場、皇帝、革命などが登場する虚構性の高い作品です。不気味な結末には《カフカ的不条理》も漂います。寓意の先にぼんやりと見えてくるモノについて語ってみたいと思います。

 

【あらすじ】

  • 夢の中で小人が現れ、踊りませんかと言った。申し出を断ると小人はレコードに合わせて一人で踊った。
  • 小人は実在したという。宮廷でよくない力を使い、そのせいで革命が起ったという噂もある。
  • 僕はと言えば、昼間は象を作る工場で働き、週末の舞踏会で一人の女の子と踊ることを夢見ていた。
  • そして夢の中に再び小人が現れる。「あんたは何かあたしに頼みごとがあるんじゃないのかい?」

 

『革命体制下の暴力』

壁には象工場の昔の写真がずらりと並んでかけてあった。初代の社長が象牙の点検をしている写真とか、工場を訪れたむかしむかしの映画女優の写真とか、夏の夜会の写真とか、そういったものだ。ただし皇帝やその他の皇族のうつった写真や、あるいは「帝政的」とみなされた写真はぜんぶ革命軍の手で焼かれてしまった。

 

象工場で働く「僕」にとって《帝政的》であろうが《革命的》であろうが、日常生活には何の関係もないはずでした。しかし、小人にそそのかされて事を起こしてしまった「僕」に対し、体制側は突如その牙をむきます。

 

『小人が求めた代償』

小人の踊りは他の誰の踊りとも違っていた。ひとことで言えば小人の踊りは観客の心の中にある普段使われていなくて、そんなものがあることを本人さえ気づかなかったような感情を白日のもとに------まるで魚のはらわたを抜くみたいに------ひっぱり出すことができたのだ。

 

小人の力によって彼女の心をつかむことが出来たのですが、森の中で一人踊り続けるという代償を「僕」は受け入れることが出来ません。小人と革命軍の板挟みとなってしまった「僕」の逃走劇がはじまります。

 

【二つの幻想】

  思想家の吉本隆明は、他者とのあいだで生じる価値観を《共同幻想》と呼び、個人が内に醸成する《個人幻想》と対置させました。

 

 例えば、ファシズムポピュリズムのように、《共同幻想》は人々に不利益をもたらす可能性があるので、個人の尊厳という視点からチェックを受ける必要があります。一方で、《個人幻想》も間違ったドグマの独善に陥る危険があるため、他者との関係性に照らし、公共性にかなっているか見定めなければなりません。私たちはこの二つの幻想のいずれかを抱えることで、この世界に居場所を見出すことが出来ます。

 

 この物語は《共同幻想》にも《個人幻想》にも安住できない主人公の悲劇を描いています。森から森へと木の実や虫を食べ、川の水を飲みながら革命軍と小人から逃げ続ける主人公の姿に、ふとこんな考えが思い浮かびました。

 

   ボクらはいま間違った幻想に気づかないまま生きているのかもしれない

 

 ただ、本当のことを見つけだそうにも、今の世の中はあまりにも慌ただしく素っ気なく、そして窮屈すぎると思いませんか?