1938年にサルトルが著した『嘔吐』は、神なき実存世界に遭遇した近代人の不安を描いたと言われています。それ以降も文学は無神論や唯物論など多様な価値観を表現してきました。さて、サルトルから40年を経た本件の《1979年の嘔吐》が問いかけるものは何でしょうか?
【あらすじ】
若手イラストレーターで、僕とはジャズ・レコードのコレクション仲間だった彼。友だちの恋人や奥さんとの軽業的なセックスを楽しんでいることを僕に話して聞かせてくれた。そんな彼には、かつて40日間続いた嘔吐と無言電話に悩まされた経験があるという。
『嘔吐と電話の日々』
「僕は昔、毎日つづけて40日間吐きつづけたことがあるんです。毎日。一日も欠かさずにです。とはいっても酒を飲んで吐いたわけじゃないんです。体の具合が悪かったというのでもない。何の原因もなくただ吐くんです。」
嘔吐についてちゃんとした総合病院で検査をし、何ひとつ身体に悪いところがないことを彼は確認しています。彼はむしろこれを理想的なダイエットだと前向きに考えて、今まで通りの生活を続けました。
嘔吐したあとバスルームで歯をみがいていると電話のベルが鳴り、彼が出ると男の声が彼の名前を告げて、そして電話はぷつんと切れた。たったそれだけだった。
ホテルに宿泊した時も、友だちの家に泊めてもらったりしたときも、嘔吐の後に必ず電話がかかってきました。薄気味悪く感じながらも、それを根くらべだと自分に言いきかせて彼はその電話を取り続けます。
【共時性】
心理学者のユングは意味ある偶然の一致について『共時性』という概念を提唱しました。『共時性』によって因果関係を越えたものごとの結びつきが認められるとき、それは無意識から意識へのシグナルと見なされます。
それは「虫の知らせ」のような真偽不明な体験に対しても、精神と身体の関係性から解明しようという東洋医学にも通じた概念です。科学が全てに優先すると信じられていた時代に、このような心理学を提唱したユングの勇気に敬服します。
物語に登場する男は、嘔吐と無言電話が重なり合って生じるメッセージを頑なに受け取ろうとはしませんでした。それは科学や論理に固執し過ぎたために、人間疎外に陥ってしまった現代人の姿のように映ります。
2006年に本作は英訳されています。世界の国々の読者はこの東洋の国から発信された《嘔吐》をどのように受け取ったでしょうか?