村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【野球場】「回転木馬のデッド・ヒート」より

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  ギリシャ神話のウロボロスの蛇が自分の尻尾を呑み込む姿は、マクロな宇宙科学(蛇の頭)とミクロの素粒子物理学(尻尾)が結びつくという先端科学のシンボルでもあります。人の心と身体の関係についても、《観念論》と《実体論》のあいだで「心-身問題」*1と呼ばれる対立が存在しますが、いつか「ウロボロスの蛇」のような解決を見出すことは出来るのでしょうか? そんなことを考えながら本作をご紹介します。

 

【あらすじ】
かれこれ5年ばかり前の事、青年は野球場の隣りに住んでいた。彼がそこに住むようになったのは、野球を眺めるためではありません。憧れの彼女のアパートの部屋がばっちりと見えるその場所から、カメラの望遠レンズ越しに彼女の私生活を覗き見る日々が始まります。

 

【望遠レンズから覗き見る私生活】 

野球場の向うに見えるぼんやりとしたアパートの灯を見ていると、僕の体の中にはそれを拡大して切り刻んでしまいたいとい欲求がどんどん大きくなっていくのがわかりました。そして、それを抑えきることは僕の意志の力では不可能でした。

 

望遠レンズから覗きみる彼女の私生活は、青年の目にはグロテスクなものに映ります。哀しく、息苦しい気持ちになりながら、彼は魂を抜かれたように覗きつづける日々を送ります。

 

じっと見ていると、彼女の体はただ単にそこにあり、彼女の行為はそのフレームの外側からやってくるような気がしてくるんです。そうすると彼女とはいったい何か、と考えはじめるんです。行為が彼女なのか、あるいは体が彼女なのか?

 

次第に青年は世の中のものごとに対する興味を失っていきます。悪夢にうなされ、服装に気をつかわなくなり、部屋の中は荒れ果てました。彼をそんなふうにしてしまった「身体と行為の分裂」が意味するものは何でしょうか?

 

【知覚と記憶】

 哲学者のベルクソンは、身体の知覚と反応のあいだには記憶が重要な役割を果たすと語っています。例えば、子供の身体的反応は鋭く明快ですが、それは記憶から受ける制約が少ないためで、記憶を積み重ねるにつれ人の反応は思慮深く、独自性を持ち、善悪美醜の入り混じる複雑な様相を呈していきます。

 

 つまり、青年が目撃したという彼女の「身体と行為の分裂」の正体は、自立した人間の誰もが積み重ねる私的な記憶が引き起こした複雑さということになります。ただ、他人の事情を全て受け入れることが不可能なように、その行為を健全な心の状態で直視し続けることもまた不可能です。

 

 本作はスキャンダラスな部分に目がとらわれがちですが、本質的には「心-身問題」にアプローチした作品に思われます。心が生み出した行為の理由を知ろうにも、私たちは心の在処すら未だに解明できていません。このような答えの出ない問題に深入りし過ぎてしまうと、覗き見青年のように身を滅ぼすことになりかねませんのでくれぐれもご用心を。

*1:心と身体とが人間のなかでどのように結び付いて人間を構成しているか、また両者はどのように影響を及ぼし合うかという問題。古来からの哲学上の問題の一つとされる。