村上春樹レヴューのブログ

自称村上主義者の私が独自の切り口で作品をご紹介します。

【貧乏な叔母さんの話】「中国行きのスロウ・ボート」より

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 広場の銅像を見上げながら《記号探し》が始まるこの作品は、あのブローティガンの名作『アメリカの鱒釣り』*1の冒頭を彷彿とさせます。その本を抱えているだけでカッコ良かった時代もあったとか、無かったとか('ω')

 

【要旨】

  • 一角獣の銅像が立つその広場で、「貧乏な叔母さん」という言葉が僕の心をとらえる。
  • 背中に貼りついた叔母さんに人々は物珍しさで関心を寄せるが、やがて興味を失っていった。
  • 秋の終わりに「貧乏な叔母さん」は去っていく。その代わり、僕のもとにはひとつの「物語」が残った。

 

『貧乏な叔母さんについて』

ある晴れた夏の午後に、一角獣の銅像を見上げながら『貧乏な叔母さん』について何か書いてみたいと「僕」は思いつきます。しかし、連れの彼女は次のような疑問を投げかけます。

 

「さて、あなたには貧乏な叔母さんなんて一人もいない」と彼女はことばを続けた。「それでも貧乏な叔母さんについて何かを書いてみたいと思う。不思議だと思わない?」

 

それでも、叔母さんのことを考え続けるうちに背中に『小さな貧乏な叔母さん』が張り付いてしまいます。それは見る人の心を喚起していくのですが、「僕」のもとには何も残らないまま時が過ぎていきます。

 

《貧乏な叔母さん》・・・近づけば偽善、突き放せば倫理性を問われるビミョーな概念

 

そんなモヤモヤとした言葉のイメージが漂うなかで、「僕」は次第に小説を書く意味すら見失っていきます。

 

「彼女は存在するのよ」彼女はそう言った。「あとはあなたがそれを受け入れるかどうかってこと」

 

この彼女との会話の後、「僕」はその言葉をなぞるように《貧乏な叔母さん的状況》に遭遇します。それは記号的な仮説でしかなかった《概念》が、手触り確かな感触をもつ《物語》に生まれ変わった瞬間でした。

  

【イメージから物語へ】

 80年代には先の『アメリカの鱒釣り』をはじめとする前衛的な文学の影響を受けて、直喩や暗喩をふんだんに使った詩的なイメージだけで構成された小説が次々と誕生しています。人はそれを『ポストモダン文学』と呼び、村上春樹もそういった作家のひとりとして見なされていた時期もありました。

 

 今でもそんな印象をもつ人がいるかもしれませんが、実際には重厚な物語を紡いでいく長編作家の道を歩んでいます。しばし逡巡した末のイメージから物語への創作スタイルの変遷。本作はそんな作家の過渡的な段階を踏む心境を、きわめて正直に告白した内容のように感じられます。 

 

*1:1967年刊行のアメリカ人作家リチャード・ブローティガンの短編小説集。本邦では藤本和子の名翻訳でも知られている。